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1. 黒御袍立像御雛
六世大木平藏製
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1. 黒御袍立像御雛
六世大木平藏製
雛の歴史を見ますと、雛には、立ち姿の立雛と、坐った姿の内裏雛という形式があります。
雛遊びは、17世紀半ばすぎから三月の節句行事として定着するようになり、立雛と内裏雛の両方の形式が飾られたようです。
また内裏雛には、寛永雛や享保雛、有職雛などの形式がありますが、この作品は有職雛の系譜にあたります。
有職雛とは、公卿の装束を考証して京都の高倉家が制作した雛のことです。
この男雛の装束は、公卿の正装で、表袴を穿いて、上衣の黒袍をまとっています。
頭に冠を被り、足には襪を履くとともに、手に笏を持っています。
丸平大木人形店の立像のほとんどが黄櫨染の御袍で、黒袍は、六世も本作を含めて三体しか制作しなかったといいます。
本作は、有職の装束の「実」に即してなお人形として有職にはない「虚」の華やかさも取り入れています。
女雛の装束は唐衣裳という宮中における女性の正装姿、いわゆる十二単です。
小袖、打袴を着けた上に、単衣・五衣・打衣・表着・唐衣を着て、さらに裳をつけています。
髪は「大垂髪」にゆい、釵子をつけて、顔には二重眉を作っています。
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2. 本狂 狆曳 八寸
七世大木平藏製
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2. 本狂 狆曳 八寸
七世大木平藏製
本作の子供は、緋色の長袴を着ていますが、本来であれば子供は濃い紫色の袴を着る慣習となっています。
また官女というのは、刺繍入りの小袖を着ることはありませんが、ここでは桜などの刺繍を施した小袖を着ています。
人形作りにおいては、有職故事に則るだけでなく、華やかさを優先させることがあり、大木平藏も虚実を混ぜながら制作にあたっていたようです。
犬の方に目を転じますと、狆は奈良時代に中国からもたらされた古い犬種で、江戸時代には、宮中や大奥で高価な小型犬として盛んに可愛がられていました。
こうした「狆曳きの官女」は、第二次大戦前まで、初節句のお祝いとしてよく使われました。
緋色の袴に白い狆の毛並みがよく映えるので、好んで雛段に飾られていました。
当時の狆は、絹糸で作った毛を植えつける毛植人形でしたが、戦後は、職人が途絶え、大木平藏も木彫りで作るようになりました。
本作もそのうちのひとつであります。
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3. 結び五人官女
七世大木平藏製
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3. 結び五人官女
七世大木平藏製
雛段の官女は一般的には三人の並びですが、本作では五人官女となってにぎやかです。
官女が、刺繍の小袖を着ることはないのですが、本作では、鳳凰と桜の刺繍や疋田絞りが施された小袖を着ていて、華やかになっています。
有職故事に沿うと華やかさに欠ける面がありますので、虚実とりまぜて人形を制作しているようです。
また大木平藏は、官女を、袴の紐を襷にかける姿の「襷」、袴の紐を脇で結ぶ姿の「結び」、袴の紐を脇で結んで袿を着る姿の「袿(うちぎ)」と呼び分けていますが、本作は「結び」にあたる作品です。
さらに頭を見ますと、外側左右の長柄銚子と加銚子の官女が若女、内側左右の嶋台を持つ官女がお福、中央の官女が老けの顔になっていて、なんとも微笑ましく感じます。
それぞれに、熨斗や雲土器など慶事に用いる道具を持たせ、めでたい上巳の行事を盛り上げています。
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4. 御所人形 石橋
七世大木平藏製
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4. 御所人形 石橋
七世大木平藏製
本作は、京都国立博物館の「御所人形 見立石橋」を本歌とした作品です。
「石橋」とは、獅子舞の能の出し物で、日本から中国の唐に渡り、文殊の浄土である清涼山(せいりょうさん)に至った脇役の寂昭法師が石橋の傍らで主役である童子に出会う話です。
童子は、石橋の由来や故事を教え、橋が危険で渡れないこと、橋の向こう側が文殊の浄土で、その目前で奇跡が起こるだろうと告げて立ち去ります。
やがて文殊浄土の愛獣である獅子が現れ、咲き匂う牡丹の花に狂おしく戯れます。
能の舞台では、牡丹の花を立てた畳一畳ほどの作り物で石橋を表わしますが、本作では、紅白の牡丹の持ち物を手に持たせて作り物を表現し、獅子口を被るのではなく頭に載せています。
紅縮緬の腹掛とおでんちには、石橋に因んで牡丹と蝶の模様の刺繍が施されています。
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5. 能人形 本狂「三番叟」一尺六寸
七世大木平藏製
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5. 能人形 本狂「三番叟」一尺六寸
七世大木平藏製
三番叟とは、能の演目「翁」の中で、狂言方が受け持った舞のこと言います。
「翁」は、ストーリーがなく、天下泰平や国土安穏を祈る謡と舞であり、その中の三番叟は五穀豊穣を寿ぐ宗教的な儀式であります。
本作は、丸平大木人形店の「三番叟」の人形の中でも最大のもので、小道具も含めて全て丸平で作られたものです。
三番叟は、前半と後半に分かれますが、本作は右手に鈴を持つ後半の「鈴の段」の舞です。
左手に持つ扇の一種、中啓は、本来と違って華やかな松竹梅模様のものであり、装束も、本来と違って黒繻子地に大きく鮮やかな鶴が刺繍されています。
これは、どちらかというと人形浄瑠璃や歌舞伎の装束に近いかもしれません。
また、「鈴の段」では本来、黒式尉の面をつけますが、本作は子供の姿なので面を付けずにいます。
被り物の剣先烏帽子も、黒塗に日の丸としています。
このように、人形は実際とは違って虚と実をとりまぜるところに面白さがあるのです。
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6. 能人形 本狂 狂言「末廣狩」
七世大木平藏製
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6. 能人形 本狂 狂言「末廣狩」
七世大木平藏製
「末廣狩」とは、狂言の演目のひとつで、大名と家来が、果報者と太郎冠者として出ます。
果報者は、侍烏帽子を被り、素襖(すおう)という装束を着ます。
主役であるシテは果報者で、脇役であるアドが太郎冠者であります。
話は、果報者が太郎冠者に、扇の一種である「末廣狩」を求めて来いと言いつけますが、太郎冠者は、その何たるかを知らないまま都の食わせ者である「すっぱ」に騙され、古傘を売りつけられて戻るというものです。
果報者は、太郎冠者の失敗を怒るものの、太郎冠者がすっぱに習った囃子物を狂言独特のシャギリの笛の調子で謡いながら舞っているうちに、機嫌を直してしまうのです。
果報者と太郎冠者の主従2人がめでたく浮き立って舞い納め、シテが「イーヤアーッ」と一声を放って明るい雰囲気のまま終曲となる出し物です。
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7. 長刀鉾
七世大木平藏製
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7. 長刀鉾
七世大木平藏製
本作は、夏の風物詩、京都祇園祭における山鉾巡行の先頭を飾る長刀鉾と曳き子たちを模した人形です。
長刀鉾とは、下京区の長刀鉾町の山鉾で、鉾頭に三条小鍛冶宗近作の長刀が用いられたことからその名称がついています。
山鉾内部の天井には、松村景文の金地着彩百鳥図が描かれ、正面と背後それぞれの破風の下に木彫の彩色人物像があります。
山鉾に掛ける水引幕として、朱雀、玄武、白虎、青龍の文様がそれぞれ刺繍され、懸装品として中国玉取獅子図絨毯やペルシャ花文様絨毯が使われるなど、「動く美術館」とも呼ばれています。
太鼓の拍子に子供衆の鉦の音、能管による笛方の調べといった囃子方の祇園囃子が奏でられて、曳き子たちがこの山鉾を手綱で引いていくのです。
大木平藏は、それらの鉾頭から、天井画や木彫、水引幕、懸装品、さらには囃子方や曳き子たちの細部まで忠実に再現しています。
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8. 蓮文花瓶
エミール・ガレ
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8. 蓮文花瓶
エミール・ガレ
エミール・ガレのガラス作品は、華やかで装飾的なイメージがありますが、実は悲しげで暗いイメージの作品も多く作っています。
ガレは、1889年のパリ万国博覧会に、黒いガラスを使った作品、後に「悲しみの花瓶シリーズ」と名付けられたものも含めて出品してグランプリを受賞しています。
透明ガラスに黒いガラスを被せて、グラインダーで彫りこんでいくグラヴュールという高度な彫刻技法を使って作られていました。
本作は、半球状に低く膨らんだ下部にやや太くて長い首、少し外反りした口縁をもつ花瓶で、蓮の花と葉による文様が大胆に装飾されたものです。
透明ガラスが現れるまで彫り込んで、残された黒いガラスの部分が文様となっている作品です。
蓮の文様は、中国や日本で仏教に結び付いた文様として広く使われていますが、ガレは、この東洋的な文様を写実的に静かに描きだしています。
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9. 蘭文耳付花瓶
エミール・ガレ
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9. 蘭文耳付花瓶
エミール・ガレ
エミール・ガレは、ガラス工芸の作家であるとともに、植物学者でもありました。
少年の頃から、植物が好きで、植物学者の指導を受けながら植物採集標本づくりに熱中し、後には、地元ナンシーの園芸協会の設立に関わったり、専門誌に論文を発表したりするほどになりました。
それゆえ、作品の文様の植物は、品種まで見分けられるほど忠実に描写されています。
本作も、ラン科の一種、パフィオペディルムの花とシダの葉をモチーフとした花瓶ということがわかります。
花瓶の胴の部分に、紫色とピンク色、金色のエナメル彩によって詳細に花が描かれています。
ガレは、花のなかでもとりわけランに心を寄せ、亡くなるまでランの研究をしていたといいます。
そんなランの花の華麗さを、繊細なシダの葉と組み合わせることによって際立たせたのだと考えられます。
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10. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
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10. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
ケマンソウは、斜めに伸びた茎にハート型の花がいくつも吊り下がる植物で、ガレの作品によく登場します。
本作はガレの晩年に制作されたとされる希少な作品です。
正面の大胆なレリーフ装飾だけでなく、器の形や背面に彫り込まれた模様に至るまで、一貫してこの花の姿をモチーフとしています。
詩文などは彫られておらず、ガレが本作にどのような心情を重ねたのかを窺い知ることはできませんが、その装飾の密度の高さは、彼がこの花のユニークな生態や可憐な姿にいかに魅了されていたかを物語るようです。
1904年9月23日、ガレは白血病のため亡くなりました。58歳の若さでした。
その翌週に発行されたイリュストラシオン誌には、追悼記事とともにこのケマンソウの花器がうつる写真が掲載されています。
下瀬家では、この作品を、ケマンソウのドイツ語の呼称にちなんで、「ハートの涙」と呼び、ガレによる大きな祭壇風のキャビネットの中央に大切に飾っていました。
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11. ひとよ茸文花瓶
エミール・ガレ
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11. ひとよ茸文花瓶
エミール・ガレ
ひとよ茸は、春から秋にかけて枯れ木などに生えるキノコで、細長い柄に灰色の傘を持ちます。
成長すると、傘が一夜にして溶けて、黒い液状になってしまうことからこの名がつきました。
自然を創作の源泉としたガレは、その生態に命の儚さを感じ取り、作品で表現しようとしたのでしょう。
晩年に制作された《ひとよ茸ランプ》は、ガレの作品の中でも特によく知られ、現存する6点のうち2点が日本の美術館に収蔵されています。
本作もひとよ茸を表現した作品のひとつです。
ガレは、層状に重ねたガラスの下に装飾を挟み込むなど、技法を尽くして、器の表面に幻想的な自然の風景を作り出しています。
そこでは、蜘蛛の巣や枯れ葉など自然界の死を連想させるモチーフとともに、ひとよ茸の姿が表されています。
5本のひとよ茸は、その成長過程を示すかのようにそれぞれ傘の開きが異なっていて、ガレが、その儚い生命を丹念に表現しようとする様子が伺えます。
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12. 蝶文花瓶
エミール・ガレ
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12. 蝶文花瓶
エミール・ガレ
ガラスの最大の特徴はその透明度の高さにあります。
ガラス工芸では、透明感を最大限活かすため、製造時に不純物が混ざらないように気を遣うのが一般的でした。
しかし、ガレは、不純物が混ざることによって生じた気泡や斑紋など、本来なら失敗と言われるような現象を、積極的に装飾として取り入れ、ガラスによる表現の可能性を広げていきました。
本作は、透明ガラスに紫やオレンジ色のガラスを部分的に重ねたガレの後期の花瓶です。
胴部には、黄色、赤、紫の3匹の蝶の装飾をマルケトリ技法により施しています。
蝶の翅の模様はそれぞれ異なっていて、目玉模様などのユニークな柄が精巧に表現されているのが分かります。
ガレは、蝶や蛾を作品によく取り入れていますが、特にその翅の模様に関心があったのかもしれません。
素地のガラスには、気泡や黒い斑点などを施すとともに、渦を巻くような彫り込みを加え、蝶がふわふわと浮遊する様子を巧みに表現しています。
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13. 雪中松文花器
エミール・ガレ
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13. 雪中松文花器
エミール・ガレ
ガレは、しばしば、古今の詩文から引用した言葉を装飾に取り入れました。
言葉によって、隠されたテーマや自らの心情を暗示し、作品をいっそう象徴性豊かなものにしようとしたのです。
その背景には、工芸品を絵画や彫刻のような芸術の域へと高めたいと願うガレの強い意志がありました。
本作は、黄緑色に発色したウラン・ガラスに白色のガラスを被せて、壺型に成型した花器です。
素地に白いガラスの粉末を仕込んで、雪が舞う様子を表すとともに、表面には、モチーフの輪郭をエッチングで彫り込んで、松の実や枝葉をエナメル彩により描いています。
雪と松という題材や繊細な雪の表現には、日本画等の影響が見て取れます。
胴に刻まれた詩文は、ガレと同時代の詩人シュリ・プリュドムによる「舞踏会の女王」の一節で、「冬の涙/不幸な人々の涙のように」というもの。
降りしきる雪を涙に例えたその言葉は、寒さや雪の重みに耐える松の声なき声を伝えているようです。
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14. 雪景文ランプ
ドーム
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14. 雪景文ランプ
ドーム
ドーム家は、元々フランス北東部のビッチュに暮らしていましたが、1870年に始まった普仏戦争の後、ドイツ領となった故郷を離れ、1878年にナンシーでガラス工場をスタートさせます。
当初は、食器などの日用品を製造していましたが、兄オーギュストと弟アントナンによる共同経営が始まると、やがて工芸品の制作に乗り出し、次第に頭角を現していきました。
ドーム兄弟の人気を支えたのがエナメル彩による風景文様の作品でした。
この雪景文は、様々な形の器やランプに使われた代表的なデザインです。
黄色とオレンジの斑紋を施したガラスを成型し、その表面にモチーフの姿をエッチングで浮き彫りにした後、木立に雪が積もる冬の情景をエナメル彩で描いています。
大小の木々を巧みに配して風景に奥行きを表すとともに、エナメルを厚く重ねて積雪した地面の質感を出すなど、その表現は実に絵画的です。
マーブル模様のガラス地は夕焼けに染まる背景として機能しています。
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15. 湖畔雪霜
川合玉堂
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15. 湖畔雪霜
川合玉堂
川合玉堂は、四季折々の光や空気を捉える近代的な風景画を描いた日本画家です。
その風景には、必ず人々の生活が活写されていました。
荷を乗せた馬を引く人や、農具を背負って歩く人、田畑で農作業をする人、小舟で魚を釣る人などであります。
人間の営みがあるからこそ自然も生きて見えてくるとの考えをもっていたのでしょう。
本作に描かれる湖の場所は明確ではありませんが、背後の山々の雄大さを考えると信州と思われます。
それほど深くない一面の雪景色が広がり、手前に裸木と真直ぐの杉があり、対岸に湖畔の集落と小舟が点景のようです。
一見して水墨画のようですが、水面には薄く青が引かれています。
さらに左下に目を移すと、民家の軒先で雪かきをする農民の姿が見えるでしょうか。
大自然のなかの人々の営みや息遣いが聞こえてきそうな風景画です。
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16. 雪煙ノ嶺
加山又造
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16. 雪煙ノ嶺
加山又造
加山又造は、その初期に枯れ木の並ぶ雪景色を好んで描いています。
その物悲しい風景が、作風に悩んでいた加山の心の内を映し出すのに相応しかったようです。
1960年代頃から加山は、美しい風景を求めて各地の雪山を取材して回るようになり、1980年代以降、その取材をもとに、写実的でありながらも理想的な雪山の構図を描くようになります。
本作は、北アルプス連峰を描いた作品です。
加山は、北アルプスについて、「朝夕も美しいが、殊に一夜、吹雪に吹き荒れ、翌朝、真っ青に晴れ上がった鮮やかな空に輝く白銀の鋭い峰は、非常に素晴らしい。」と語っています。
この作品にも、晴れ上がった青空に、雪の積もった木の輪郭と高く聳える山の稜線がくっきりと浮かび上がる白銀の美しい雪景色が描かれています。
加山にとって雪山は、尽きることのない魅力をもった自然であり、長年にわたり描き続けた大切な主題のひとつなのです。
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17. 雪の無線中継所
岡鹿之助
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17. 雪の無線中継所
岡鹿之助
岡鹿之助は、日本では珍しい点描画法を用いた画家です。
新印象主義のスーラの描法を学びながらも、絵具を混色せずに、色彩の明暗バランスに配慮した独自の点描を習得し、パンジーや森の中の古城、雪景色といった題材を終生描きました。
特に雪の表現にはこだわりを持ち、湿った雪ではなく、乾いた雪を表現できるように、白の筆致の肌合いを追究してきたのです。
本作は、真冬の険しい山々を背景として丘陵に建つ無線の中継所を描いたものです。
頂上付近で激しい風が吹いてるようで、粉雪が棚引くほどに舞っているのが見えます。
荒涼とした雪景色ではありますが、空に深い青色が、レンガ造りの中継所に赤茶色が独自の点描で用いられていて、詩的でぬくもりのある風景となっています。
雪の表現も、湿り気のない冷たく乾いた質感の雪になっているのが分かると思います。
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18. 色絵瓢形飾徳利
富本憲吉
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18. 色絵瓢形飾徳利
富本憲吉
富本憲吉は、白磁や染付、色絵、金銀彩など多岐にわたる陶器を制作してきました。
そのなかでも特に力を入れたのが、模様の創作でありました。
バーナード・リーチとの交友の中から「模様から模様をつくらず」との確信を得て、模倣の模様ではなく、身近な自然の写生を重ねた上での富本ならではの模様を心がけてきました。
とくに九谷に通い始めて色絵の研究を進めるようになってからは、数多くの新しい模様を生み出してきました。
その代表的な成果が色絵四弁花連続模様でありました。
本作は、瓢型の器形の上に、朱と緑、黄色による四弁花連続模様を主体として、藍と朱の市松模様を組み合わせて載せたものであります。
形と模様を一体化させるために、右に左に大きく揺れる曲線を使いつつ、腰のくびれに白い帯を入れて、2つに大きく区切る工夫もここには見られます。
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19. 染付猛鳥画花瓶
北大路魯山人
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19. 染付猛鳥画花瓶
北大路魯山人
料理人であり陶芸家であった北大路魯山人は、美食を求めると同時に、それにふさわしい美しい食器をも求めました。
自ら厨房に入って料理を作る一方で、使用する食器を自らの手で創作したのです。
1925年に東京に星岡茶寮という会員制料亭をはじめ、鎌倉では星岡窯を築いて理想の陶磁器の制作を始めたのです。
その作域は、志野から織部、信楽、備前、瀬戸、染付、色絵など広範囲に及びました。
本作は、中国風の染付で、石川県山代の須田菁華から手ほどきを受けた技法による作品です。
猛々しい鷹が獲物を仕留めて今にも啄(ついば)もうという瞬間を描いたもので、その筆は正確かつ手早く躍動感があります。
空白の白磁部分も多く残して、静と動をバランス良く組み合わせているのが印象的な作品です。
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20. 少女
ピエール=オーギュスト・ルノワール
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20. 少女
ピエール=オーギュスト・ルノワール
レースの帽子を被った女の子がひとり佇んでいます。
白いブラウスに赤いスカートを履いた装いで、長い髪には赤い髪飾りをつけているのが見えます。
手には棒のようなものを持ち、何かを見つめているようです。
ルノワールは、パリの裕福な人々の間に顧客をもち始めた頃から、その家族の肖像画を依頼されることも多く、子供たちの姿をよく描いています。
1885年、44歳の時に長男ピエールが誕生すると、その後、次男ジャン、三男クロードと3人の子宝に恵まれ、その関心は身近な子供たちにも向けられるようになりました。
息子たちだけでなく、その友達や近所の子供たちにモデルを頼むこともあったそうです。
この小さな作品のモデルが誰なのかは分かっていませんが、ルノワールは、そのふっくらとした顔を丁寧に描いています。
一方、帽子や衣服には素早いタッチが残り、少女の姿は背景の緑に溶け込むようにも見えます。
余白を残しながら、珠玉の小品に仕上げています。
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21. 紫色の花束
マルク・シャガール
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21. 紫色の花束
マルク・シャガール
20世紀を代表する芸術家マルク・シャガールは、最初の妻ベラへの愛をテーマとした絵画を多く描き、「愛の画家」とも呼ばれました。
そんな彼にとって、特別な意味を持つモチーフが花束です。
それは1915年7月7日、シャガールの誕生日の出来事でした。
ベラがナナカマドの花束を持ってお祝いに来てくれたのです。
その後、2人はすぐに結婚しますが、以来、花束は愛のシンボルとして、故郷であるロシアのヴィテブスクの風景や抱き合う恋人たちの姿とともに描かれるようになりました。
本作では、花瓶に生けられた紫色の花束が中央に大きく描かれています。
背景の青は、画家のアトリエがある南フランスの空と海の色です。
左下には、故郷の思い出につながる赤いロバとベラと思われる人物が寄り添うように横たわっています。
シャガールは、愛妻ベラを第二次大戦中に亡くしますが、追憶の中で生きるその姿を情感溢れるマチエールと色彩で描き続けました。
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22. 座る女
マリー・ローランサン
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22. 座る女
マリー・ローランサン
椅子に腰かけるのは、白いドレスに黄色いリボンを合わせた上品な装いの女性です。
華やかな髪飾りや真珠のネックレスを身に着け、左手には一輪のバラを持っています。
大人びた雰囲気を持ちつつも、頬をピンクに染めたその表情にはまだ幼さが残ります。
ローランサンが画家を志した20世紀初頭のパリでは、女性の芸術家はほとんどいませんでした。
そうした環境の中で、まだ無名であったピカソをはじめ、才能豊かな画家や詩人と交流した彼女は、周囲の影響を受けつつも、色彩や形態に対する女性ならではの感性を大切にして、自らの表現を確立していきました。
本作はその画業の後半に描かれた作品です。
グレーの背景に暗い赤色を置き、作品に深みを与えるとともに、若い女性の繊細な内面を巧みに浮かび上がらせています。
ローランサンは、赤や黄色を「男っぽい色」として苦手にしていたそうですが、ここではその色を効果的に使い、円熟した色彩感覚を見せています。
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23. 村娘図
岸田劉生
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23. 村娘図
岸田劉生
この作品は、岸田劉生が転地療養のために東京を離れて、神奈川県の鵠沼、現在の藤沢市で暮らし始めた頃に描いた水彩画です。
モデルは、近所に住んでいた於松という名前の9歳の娘で、岸田の愛娘の麗子の遊び友達でもありました。
岸田は、麗子の肖像も描いていますが、当時6歳でじっとしていられないことが多かったので、その時は、辛抱強い於松をよくモデルにしたようです。
於松は純朴な子供で、岸田も「鄙びた田舎娘の持つ美」のまたとないモデルと考えていました。
ここでは、着物に羽織の姿が描かれていますが、よく見るとその羽織の右肩が少しほつれていて、岸田はそれさえも不思議に美しいと感じたと述べています。
顔の表情についても、「キョトンと前方を見て無心でいる様な感じ」や、顔や目、眉に「不思議な澄んだ永遠の美」が見られるとしています。
岸田は、於松を退屈させないように得意のお話を聞かせながら、赤い頬に見られる素朴さを精緻に描いています。
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24. ポッピンを吹く南蛮童子
鹿児島寿蔵
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24. ポッピンを吹く南蛮童子
鹿児島寿蔵
本作は、鹿児島寿蔵が創作した紙塑という素材で作られた人形です。
紙塑というのは、和紙原料の楮などに様々な接着剤を混ぜ合わせて、臼で搗き、撹拌し、手でこねて作るものです。
人形にするには、それを石膏や粘土の原型に貼り付けて乾燥させて、箆で磨き、彩色して完成させます。
本作のポッピンというのは、江戸時代のガラス製玩具で、長い管状の部分から息を出し入れした時、気圧差と薄いガラスの弾力により発する音を楽しむものです。
本作の子どもは、ずれ落ちそうな大きな帽子を抱え、桃山時代頃に渡来した西洋人が着ていた南蛮服を身に着けながらポッピンを吹いています。
鹿児島は、次のように回想しています。
「私の少年時代、故郷の仲秋の祭りにこのポッピンが、浜辺に続く露店で売られていた」と。
ポッピンは、作家の故郷である福岡の筥崎八幡宮の祭りの思い出に重なるもので、郷愁を呼び起させるものなのでしょう。
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25. 松浦佐用比売
平田郷陽
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25. 松浦佐用比売
平田郷陽
松浦佐用比売とは、『万葉集』にも出てくる伝説上の女性であります。
現在の佐賀県にあたる肥前国松浦郡に住んでいた松浦佐用比売が、朝鮮に出兵する恋人・大伴挟手彦との別れに際し、高い山の上で、肩にかける白い布の領巾を振って別れを惜しんだことから、その山を「領巾振山」と呼んだと伝わっています。
本作は、領巾を右手で振りながら、切ない表情で別れを惜しむ松浦佐用比売の姿を表わしています。
単純化された造形ですが、その仕草には細やかな情感が込められているのがわかります。
平田郷陽は、衣裳人形の第一人者で、写実に基づいた人形制作を主体としましたが、第二次大戦後は、木彫りの人形に裂地を貼り込んでいく木目込の技法によって単純化されたフォルムを追求したのです。
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26. 静物
安井曾太郎
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26. 静物
安井曾太郎
安井曾太郎は、1914年にフランス留学から帰国した後、西欧で学んだ技法で日本の風土を思うように描けず、低迷に悩んでいました。
本作は、そのスランプを乗り越えた頃の、ややにぎやかな印象の作品です。
この作品は、リンゴとバナナ、そして梨をモチーフとした静物画なのですが、定石通りそれらを引き立たせるような地味な背景になっていません。
下に赤い花柄の布を敷して、緑の強い織部風の大皿を置き、背後に額絵、そして模様のある襖を控えさせています。
そこにリンゴ4個とバナナ4本、梨3個を置いています。
これだけ多くのものを置くと通常なら統一感がなくなる所ですが、安井はそれぞれを持ち前の写実の力で捉えるとともに、西欧で掴んだ柔らかな色彩感覚で包み込んで、そのにぎやかな画面を調和せることに成功しています。
その大掴みをするような筆致に、長いスランプから抜け出でてきた自信を見ることができるのです。
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27. つかのま
小倉遊亀
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27. つかのま
小倉遊亀
小倉遊亀は、若い頃から禅に傾倒していました。座禅の修養は、作画にも影響を及ぼし、己の心を無にしてこそ初めて美をつかむことができると考えるようになりました。
本作のモチーフである梅も禅に繋がっています。梅は、寒さに長く耐えて春の初めに開花させることから、苦しい修行に耐えて悟りを開く境地に例えられることがあるからです。小倉は、自らの人生を鑑みながら、庭に咲く紅白や淡い紅色などの様々な梅を描くようになりました。
本作は、小倉が車椅子に乗りながら自邸の庭で梅を見ている時に着想した構図です。背景の色鮮やかな赤は、小倉の敬愛するマティスからの影響が見られもので、白梅の白い花と、染付の花器を効果的に際立たせています。さらに、左下に散った花びらを描き、梅の「つかのま」の美しさを強調しているのです。
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28. 薔薇図
梅原龍三郎
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28. 薔薇図
梅原龍三郎
梅原龍三郎は、桜島や富士山などの風景画に定評がありますが、花の静物画にも優品を残しています。
梅原は、1939年に北京を訪れた時に、万暦赤絵の花瓶を気に入って持ち帰りました。
帰国後に、その豪華な器に負けない花として選んだのが、薔薇でした。
梅原は、薔薇について、次のようなことを述べています。
「ばらの殊に開こうとする非常に弾力のあるふくらみとか、螺旋状が自分には興味を刺激して描きたくなる」と。
薔薇の生命力が制作の原動力になったのです。
本作は、数多い薔薇図の中でも、珍しく重心の低い角形花瓶との組み合わせを描いたものです。
テーブルに果物鉢と果物も添えて、安定感のある構図にしています。
また、赤と緑のコントラストの強い色遣いにしていますが、明度を抑えているためか、穏やかにさえ見えるのが不思議です。
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29. 茄子と馬鈴薯篭入
坂本繁二郎
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29. 茄子と馬鈴薯篭入
坂本繁二郎
一般的に静物画というと、薔薇の花や林檎などの果物が描かれる場合が多いのですが、本作では、ナスとジャガイモ、そして入れ物の籠という日常的なものが描かれています。
華やかな色彩ではなく、渋い色合いが使われているように、坂本繁二郎の絵画は、独自の中間色を塗り重ねるのが特徴です。
形も明確ではなく、影もぼんやりとしていて、背景のなかに溶け込んでいるように見えます。
坂本は、ナスとジャガイモを明確に写生するのではなく、筆跡を意識的に残しながら形を描き、背景との境界をあいまいにしていって、絵画としての質感を出そうとしました。
坂本はそれを「物感」と呼び、絵画における実在感をだそうとしていました。
坂本は、他に煉瓦やおもちゃ、能面などのモチーフも採りあげましたが、同じ考えに基づいた静物画を描いていったのです。
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30. ランプの下の静物
パブロ・ピカソ
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30. ランプの下の静物
パブロ・ピカソ
暗闇に灯るランプの明かりが、果物やガラスコップを照らし出しています。
黄色や赤、青、緑という限られた色とシンプルな形で構成された画面には、大らかな線がリズミカルに走り、モチーフに躍動感を与えています。
ピカソは、1958年から63年にかけて、リノカットという版画に集中的に取り組みました。
リノカットは、木の板の代わりに、リノリウムというゴム板に似た素材を用います。
通常、1色刷るごとに1枚のリノリウム板を使うため、多色刷りには複数の板が必要でしたが、ピカソは、1枚の板を使い、少し彫っては1色刷る工程を繰り返して多色刷りにする方法を開発します。
途中での修正が難しいこの方法は、事前の緻密な色彩計画を必要としましたが、その困難がピカソの制作意欲を掻き立てたのかもしれません。
この時期の終わり頃に作られた本作では、リノカットでは難しいとされる細い線の表現が見られるなど、技法的な完成度の高さが伺えます。
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31. 月明り
加山又造
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31. 月明り
加山又造
加山又造が最初に桜の絵を描いたのは、1972年のことです。
加山は、満開の桜を求めて京都の円山公園に出向き、見事な枝垂桜を見つけて《春朧》を制作しました。
春霞にうるんだ大きな月が、暗闇から豪壮に桜を浮かび上がらせるような構図のものでした。
本作は、おぼろ月に淡く照らされる枝垂桜を主題として1980年代以降に描かれたものであります。
金泥に墨を混ぜて塗りこめた背景の上に、型紙を使いながら桜の花弁部分を胡粉で無数に描いています。
さらに表面を洗い出すようにピンク色で着彩していく手法を用いています。
霞のなかで月光が輝き、枝垂桜を幽玄的に浮かび上がらせる作品です。
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32. 叢中花
向井潤吉
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32. 叢中花
向井潤吉
向井潤吉は、各地にあった茅葺屋根の民家を生涯のテーマとして描き続けた画家です。
向井は、もともと民家に興味を持っていたのですが、第二次大戦後、戦火が日本全土に広がって焼失したり、時代の変化により姿を消したりしてゆく実態を知るに及んで、民家に異常なほどに関心を示したのです。
「せめて無くなる前に、昔からの民家のよさを絵に残しておけば」と考えて、全国を訪ね回り、亡くなるまでに千軒を超える民家を描きました。
本作は、長野県更埴市にあったという古民家で、その周囲に広がる草むらと、満開の桜を描いたものです。
青い空と優しい山を背景に、草木の中から茅葺屋根の家が顔を出すという構図です。
この時期の向井は、民家の周囲にある風土や風景にも重点を置くようになっていて、民家を桜の背後に隠すように描きました。
こうした堅実な写生によって、私たちはかつて全国にあった日本の原風景を知ることができるのです。
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33. 春光
浅井忠
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33. 春光
浅井忠
浅井忠は明治時代の画家であり、少し脂っぽい色彩を使うイメージが付きまといます。
しかし本作は、《春光》というタイトルの通りに春の柔らかな日差しを受けた明るい作品になっています。
これは、浅井が1900年から1902年にかけてフランスへ留学し、パリ近郊の村に滞在しながら光の表現を研究していたからと思われます。
本作は、1903年の第2回関西美術会展に出品された作品で、《干鰯かき》と題されていました。
干鰯(ほしか)とは、江戸時代から農作物用として広く使われてきた肥料のことで、浅井の出身地である千葉県内で盛んに生産されていたものでした。
この作品も、外房の御宿の海岸で鰯を乾燥させる作業に勤しむ着物に前掛け姿の5人を穏やかに描いたものです。
制作は、1897年頃とされますが、フランスから帰国した後に、その研究成果である技法によって加筆して、1903年の展覧会に出品したと考えられます。
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34. 大観山の富士
片岡球子
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34. 大観山の富士
片岡球子
片岡球子は、多くの富士山図を残しています。
片岡は、1960年代から日本各地の火山を取材して火山画をはじめていて、最終的に富士山のテーマに辿りついています。
片岡は、富士山の周囲を巡りながら、対話をするように様々な角度から写生をし、自分なりの表現で富士山の姿を思いのままに描きました。
本作は、山の稜線や冠雪、雪融けの痕跡を大胆に表現したもので、華やかで活力あふれる富士山が描かれています。
前方手前には、薄桃色の桜の花が咲き、春の訪れを予感させます。
片岡は、富士山に花を供えるよう、また花の絵を描いた着物を着せるよう、富士山とともに花を描き入れました。
この作品の桜の花にも片岡の富士山への感謝の想いが込められています。