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1. 松浦佐用比売
平田郷陽

1. 松浦佐用比売
平田郷陽
松浦佐用比売とは、『万葉集』にも出てくる伝説上の女性であります。
現在の佐賀県にあたる肥前国松浦郡に住んでいた松浦佐用比売が、朝鮮に出兵する恋人・大伴挟手彦との別れに際し、高い山の上で、肩にかける白い布の領巾を振って別れを惜しんだことから、その山を「領巾振山」と呼んだと伝わっています。
本作は、領巾を右手で振りながら、切ない表情で別れを惜しむ松浦佐用比売の姿を表わしています。
単純化された造形ですが、その仕草には細やかな情感が込められているのがわかります。
平田郷陽は、衣裳人形の第一人者で、写実に基づいた人形制作を主体としましたが、第二次大戦後は、木彫りの人形に裂地を貼り込んでいく木目込の技法によって単純化されたフォルムを追求したのです。

2. ビスク・ドール(トリストまたはロングフェイス)
エミール・ジュモー

2. ビスク・ドール(トリストまたはロングフェイス)
エミール・ジュモー
ビスク・ドールは、釉薬をかけないで作られた磁器製の顔をもつ人形です。
19世紀後半のフランスやドイツでは、可動式の手足を持つ子供の姿をしたビスク・ドールが盛んに作られました。
ジュモーは、その時代を代表するフランスの人形メーカーのひとつです。
特に、創業者の息子エミール・ジュモーは、事業家としての手腕を振るい、優れたモデルの数々を世に送り出しました。
本作は、愁いを帯びた表情から「トリスト」や「ロングフェイス」の名で知られる人形です。
その顔の型は、ジュモーが理想的な子供の顔を求めて彫刻家カリエ=ベルーズに制作を依頼したものです。
ここでは、青いドレスに、レースの帽子とブーツを合わせた装いをしています。
ブロンドの髪はアンゴラヤギの毛を用いたモヘア製で、青いガラスの目にはランダム模様の虹彩が精巧に入れられています。
その個性的な顔立ちや透き通るような肌は、ジュモー人形のひとつの到達点を示しています。

3. アリス
金子國義

3. アリス
金子國義
本作は、長い髪に白いリボンをつけ、白い襟元の赤い服を着た色白の少女が、青空を背景に白いウサギを抱いている構図です。
タイトルから分かるようにそれは、ルイス・キャロル原作の『不思議の国のアリス』に登場するアリスと白ウサギと思われます。
アリスは、忙しそうに目の前を横切った白ウサギの後を追って不思議の国に迷い込んだ、好奇心旺盛な少女でした。
これは、ウサギを強く抱き、逃がさないようにしてこの世に留めようとしている少女の図なのでしょう。
金子國義は、イタリアのオリベッティ社から依頼されて、1974年に絵本『不思議の国のアリス』を出版します。
それは、ルイス・キャロルの原作に忠実な鉛筆画でしたが、ここでは象徴的にウサギを抱くという構図にしています。
金子は、子供だけに許される無分別な遊戯の世界で自由に生きる少女アリスの姿を描いたのです。

4. 少女の人形
四谷シモン

4. 少女の人形
四谷シモン
四谷シモンは、自身が作る西洋的な人形をにぎやかなものと認識していました。
しかし、2004年にパリでの人形展に外国作家のものと並べてみると、実は極めて静かで日本的であることに気づかされたといいます。
それは、制作時に、自身の意図を出来るだけ排除し、無音や無臭を意識していたことに起因しているようです。
四谷の人形は、華やかに見えますが、実は静かで日本的だったのです。
本作は、石膏の原型から張子の技法を使って作られた球体関節人形ですが、当館には同じ型から作られた人形がもう1点あります。
本作は白いドレスを着ていますが、他方は赤いドレスを着ています。
その輪郭や髪形、眉毛と口紅の描き方が少し変化していて、印象も大きく違って見えます。

5. 少女の人形
四谷シモン

5. 少女の人形
四谷シモン
本作は、赤いドレスを着た少女の球体関節人形です。
四谷シモンの球体関節人形は、伝統的な張子の技法を使って作られます。
原型を粘土で作って、それをもとに石膏型を作ります。
その内側に張子紙を貼って乾いた後に型抜きをします。
それを桐塑で地塗りをして、更に胡粉を塗って磨(みが)いて仕上げ、最後に各パーツの間に球体関節を挟んで組み立てていきます。
当館には、同じ型から作られた白いドレスを着た人形がもう一点ありますが、仕上げ方が違うため顔立ちの印象も異なって見えます。

6. 姉妹
金子國義

6. 姉妹
金子國義
金子國義は、1971年にミラノのナヴィリオ画廊で個展を開催しました。
その前年にナヴィリオ画廊のオーナーが銀座の青木画廊(あおきがろう)を訪ねて、金子の作品を気に入り、個展の約束をしていたのです。
その出品作は、イタリアのオリベッティ社のアート・ディレクターに所有され、それが1974年にオリベッティ社が出版した金子の絵本『不思議の国のアリス』に繋がるのです。
本作は、ナヴィリオ画廊の個展に出品された作品のひとつです。
赤いカーテンと青空だけを背景に、裸の女性二人がコルセットを身につけて長椅子に座っています。
女性たちは動きのあるポーズをとっていますが、顔の表情は無表情のままです。
ここに、当時金子が関心を抱いていたシュルレアリスムの画家ポール・デルボーの影響が見られます。
この女性たちは、デルボーの幻想的な架空都市おける壮大な無言劇の登場人物のように、硬い表情で遠くを見つめているのです。
金子は、「詩情や神秘で飾られた無限の夢想のなかに死の匂いと世界の終末がある」と述べていますが、そうした終末観がここにも見てとれるのです。

7. 未来と過去のイヴ 10
四谷シモン

7. 未来と過去のイヴ 10
四谷シモン
本作は、1973年の最初の個展「未来と過去のイヴ」に出品されたものです。
作品名は、フランス文学者の澁澤龍彦が個展に寄せた文章にちなんでつけられました。
19世紀の作家、ヴィリエ・ド・リラダンのSF小説『未来のイヴ』に、万能の発明家エディソンが失意の青年エドワルド卿のために美しい人造人間をつくるという場面がありますが、澁澤はそれを着想源として、四谷シモンの個展に「未来と過去のイヴ」という文を寄せたと考えられます。
本作は、個展のために制作された12体の人形のひとつです。
それは、四谷がアングラ劇団「状況劇場」に自我をむき出しにした女形として出演していた頃の自画像であり、顔に油絵具でメイクを施し、体にラッカーを塗り、陰毛を強調するなど個性的な人形になっています。
四谷は「単にきれいなかわいい人形じゃなく、もっとドス黒い人形を作りたい」と後に語っていますが、この作品にはそういった感情が反映されています。

8. 慎み深さのない人形 8
四谷シモン

8. 慎み深さのない人形 8
四谷シモン
四谷シモンは1968年、アングラ劇団「状況劇場」の芝居「由比正雪」に出演しました。
顔にドーランを塗り、アドリブで激しいセリフを吐いて人気を博しました。
四谷は1970年代に入って、そんな役者時代の自画像を人形として表現しました。
本作もそのひとつで、真っ赤な口紅を塗り、黒いレースの下着やデコラティブな装飾品をつけるなど、その当時の激しい感情が表されています。
まさに「慎み深さのない人形」といえるものになっています。
さらにこの人形の異様な感じは、上半身と下半身を半回転させたポーズにも表われています。
そのポーズは、フランスのシュルレアリスムの人形作家ピエール・モリニエの影響によるものでした。
モリニエも澁澤龍彦が日本に紹介した作家でした。

9. 機械仕掛の少年2
四谷シモン

9. 機械仕掛の少年2
四谷シモン
本作は、少年の姿をした球体関節人形です。
四谷シモンは、ボディの各パーツを伝統的な張子の技法で作り、その間に球体関節を挟んで組み立てます。
本作はさらに、機械仕掛けになっていて、手や目が動くように、各部の駆動装置と台座のぜんまいばねとがピアノ線で繋がる構造になっています。
この構造は、本作の胸部のパーツが着脱可能となっていて、そこを外すと見ることができるようになっています。
この機械仕掛け人形の発想というのは、四谷の敬愛していた澁澤龍彦の著書に登場する自動人形や遊戯機械に触発されたものとされています。
本作の機械装置のメカニズムについては、機械工学を専攻していた荒木博志が担当しています。
四谷は、1980年の個展で、実際に動く機会仕掛けの人形を3体発表していますが、本作はそのうちの1体です。

10. 少女の人形
四谷シモン

10. 少女の人形
四谷シモン
四谷シモンは、球体関節人形を作る人形作家で、1970年代の「未来と過去のイヴ」シリーズでは、毒々しいエロティシズムのイメージの人形を制作していました。
それが1980年代になると、エロティシズムを感じさせながらも、優しくて愛らしい人形のスタイルへと変化させていくのです。
本作は、幼い顔をした少女の球体関節人形で、ビスチェと靴下だけを身に着けさせ、靴を履かせたものです。
その唇に薄いピンク色を塗り、耳にピアスを付けています。
四谷は、自身の人形について「無臭性、無時間というものを大切にしたい」と述べているように、この人形の黒い瞳もただ静かに正面を見ているだけの表情に仕上げているのです。

11. 天使-澁澤龍彦に捧ぐ
四谷シモン

11. 天使-澁澤龍彦に捧ぐ
四谷シモン
四谷シモンにとって、フランス文学者の澁澤龍彦は重要な存在でした。
澁澤は、ハンス・ベルメールの球体関節人形を知るきっかけをくれた人物であり、四谷は、澁澤と交流を深め、心酔していきました。
それゆえ、1987年に澁澤が亡くなると、何も手につかないほど深い悲しみに陥ったといいます。
その失意の底から抜け出せたのは、生前の澁澤と構想を練っていた天使の人形をシリーズ的に制作したことからでした。
本作は、四谷の作品の中でも珍しく球体関節を持たない人形です。
また天使の人形シリーズの中でも最大の作品となっています。
ではなぜ天使だったのでしょう。
四谷は、人間はその死後にどこに行くのだろうかと考えていて、「目に見えない魂だけの存在になるとしても、あえて形に表すとすると、それは天使だ」として、天使を構想したといいます。
本作は、肌や髪を白く、羽根や衣裳全体を淡い水色に彩色して、宙に浮いて頭上に金属の光輪を伴う形となっています。

12. 御所人形 石橋
七世大木平藏製

12. 御所人形 石橋
七世大木平藏製
本作は、京都国立博物館の「御所人形 見立石橋」を本歌とした作品です。
「石橋」とは、獅子舞の能の出し物で、日本から中国の唐に渡り、文殊の浄土である清涼山(せいりょうさん)に至った脇役の寂昭法師が石橋の傍らで主役である童子に出会う話です。
童子は、石橋の由来や故事を教え、橋が危険で渡れないこと、橋の向こう側が文殊の浄土で、その目前で奇跡が起こるだろうと告げて立ち去ります。
やがて文殊浄土の愛獣である獅子が現れ、咲き匂う牡丹の花に狂おしく戯れます。
能の舞台では、牡丹の花を立てた畳一畳ほどの作り物で石橋を表わしますが、本作では、紅白の牡丹の持ち物を手に持たせて作り物を表現し、獅子口を被るのではなく頭に載せています。
紅縮緬の腹掛とおでんちには、石橋に因んで牡丹と蝶の模様の刺繍が施されています。

13. 本狂 五節舞姫
七世大木平藏製

13. 本狂 五節舞姫
七世大木平藏製
五節舞とは、古代から続いてきた雅楽における女舞です。
7世紀の天武天皇が吉野において筝を弾いていた時、御前に天女が舞い降りて、羽衣の袖を5回翻して舞ったという伝説に起源があるとされます。
「続日本紀」には、孝謙天皇が内親王時代の743年に、自ら五節舞を舞ったと記録され、9世紀の嵯峨天皇の頃には、新嘗祭や大嘗祭で舞うことが定着します。
しかし15世紀の戦国時代に見られなくなり、三百年の空白を経た18世紀半ばの江戸時代に再興されました。 伝承はすでに途絶えていて、舞も装束も新しいものになったといいます。
明治天皇の大嘗祭では行われず、大正天皇の大嘗祭で再度復活して、その後、昭和、平成、令和と受け継がれてきました。
本作の舞姫の装束は、表着の上に唐衣を羽織る姿で、右手で桧扇をかざしています。
髪には金色の心葉を立てて、白い日陰糸を垂らしています。

14. 本行 蘭陵王
七世大木平藏製

14. 本行 蘭陵王
七世大木平藏製
本作は、舞楽の「蘭陵王」の衣裳人形と大太鼓を組合せた作品です。
この舞楽は、中国6世紀の北斉の蘭陵王として知られる高長恭が勇猛な仮面をつけて戦に臨んで勝利したという故事を題材にしたもです。
蘭陵王があまりにも美しい容貌をもっていたために、兵卒たちの士気が下がることを恐れて常に仮面をつけて戦ったという伝説が残っています。
広島厳島神社でもよく舞われる舞楽で、その装束が特徴的です。
蘭陵王は、毛で縁取られた紅白の毛縁裲襠を着て、朱の緒のついた金帯を締め、指貫袴をはいています。
そして頭に小さな龍の載る吊り顎の金の仮面を被っています。
後ろには、「火焔太鼓」ともいわれる左右一対の大太鼓が置かれ、撥を持って踊る蘭陵王の堂々とした姿が強調されています。

15. 能人形 本狂「竹生島」九寸
七世大木平藏製

15. 能人形 本狂「竹生島」九寸
七世大木平藏製
能人形として選ばれる出し物には、おめでたい「高砂」や「鶴亀」、「竹生島」といったものがあります。
なかでも「竹生島」は、主役であるシテの龍神と、助演役であるツレの弁財天の華やかさが好まれて、御所人形や本狂人形、おぼこ人形、木彫人形によく使われます。
本作は、三頭身の幼児をモデルとした本狂の「竹生島」です。
主役である龍神を中央に据えて、脇役の臣下を向かって右に、助演役である弁財天を左に飾っています。
「竹生島」は、醍醐天皇の臣下が、琵琶湖の竹生島の社を参詣した時に、龍神と弁財天に出会い、そこで弁財天が臣下に舞を舞って見せ、龍神が珠玉を捧げ、衆生済度、国土鎮護を誓うという話です。
龍神は、赤頭に冠り物の龍載、打杖という出立で火焔玉を持ち、弁財天は、黒垂に天冠の天女という出立です。
臣下の烏帽子は、本来なら黒い大臣烏帽子ですが、ここでは華やかにみせるために金箔を押しています。

16. 黒御袍立像御雛
六世大木平藏製

16. 黒御袍立像御雛
六世大木平藏製
雛の歴史を見ますと、雛には、立ち姿の立雛と、坐った姿の内裏雛という形式があります。
雛遊びは、17世紀半ばすぎから三月の節句行事として定着するようになり、立雛と内裏雛の両方の形式が飾られたようです。
また内裏雛には、寛永雛や享保雛、有職雛などの形式がありますが、この作品は有職雛の系譜にあたります。
有職雛とは、公卿の装束を考証して京都の高倉家が制作した雛のことです。
この男雛の装束は、公卿の正装で、表袴を穿いて、上衣の黒袍をまとっています。
頭に冠を被り、足には襪を履くとともに、手に笏を持っています。
丸平大木人形店の立像のほとんどが黄櫨染の御袍で、黒袍は、六世も本作を含めて三体しか制作しなかったといいます。
本作は、有職の装束の「実」に即してなお人形として有職にはない「虚」の華やかさも取り入れています。
女雛の装束は唐衣裳という宮中における女性の正装姿、いわゆる十二単です。
小袖、打袴を着けた上に、単衣・五衣・打衣・表着・唐衣を着て、さらに裳をつけています。
髪は「大垂髪」にゆい、釵子をつけて、顔には二重眉を作っています。

17. 本狂 狆曳 八寸
七世大木平藏製

17. 本狂 狆曳 八寸
七世大木平藏製
本作の子供は、緋色の長袴を着ていますが、本来であれば子供は濃い紫色の袴を着る慣習となっています。
また官女というのは、刺繍入りの小袖を着ることはありませんが、ここでは桜などの刺繍を施した小袖を着ています。
人形作りにおいては、有職故事に則るだけでなく、華やかさを優先させることがあり、大木平藏も虚実を混ぜながら制作にあたっていたようです。
犬の方に目を転じますと、狆は奈良時代に中国からもたらされた古い犬種で、江戸時代には、宮中や大奥で高価な小型犬として盛んに可愛がられていました。
こうした「狆曳きの官女」は、第二次大戦前まで、初節句のお祝いとしてよく使われました。
緋色の袴に白い狆の毛並みがよく映えるので、好んで雛段に飾られていました。
当時の狆は、絹糸で作った毛を植えつける毛植人形でしたが、戦後は、職人が途絶え、大木平藏も木彫りで作るようになりました。
本作もそのうちのひとつであります。

18. 結び五人官女
七世大木平藏製

18. 結び五人官女
七世大木平藏製
雛段の官女は一般的には三人の並びですが、本作では五人官女となってにぎやかです。
官女が、刺繍の小袖を着ることはないのですが、本作では、鳳凰と桜の刺繍や疋田絞りが施された小袖を着ていて、華やかになっています。
有職故事に沿うと華やかさに欠ける面がありますので、虚実とりまぜて人形を制作しているようです。
また大木平藏は、官女を、袴の紐を襷にかける姿の「襷」、袴の紐を脇で結ぶ姿の「結び」、袴の紐を脇で結んで袿を着る姿の「袿(うちぎ)」と呼び分けていますが、本作は「結び」にあたる作品です。
さらに頭を見ますと、外側左右の長柄銚子と加銚子の官女が若女、内側左右の嶋台を持つ官女がお福、中央の官女が老けの顔になっていて、なんとも微笑ましく感じます。
それぞれに、熨斗や雲土器など慶事に用いる道具を持たせ、めでたい上巳の行事を盛り上げています。

19. 木彫り三ツ折レ 市松人形
七世大木平藏製

19. 木彫り三ツ折レ 市松人形
七世大木平藏製
京阪地方で「いちまさん」の愛称で親しまれる市松人形の名称は、江戸時代中期の歌舞伎役者、佐野川市松に由来します。
市松は、上方の歌舞伎の若衆方として人気を博し、江戸に移って一世を風靡しました。
当時、ファンクラブに相当する市松寄合に向けて似顔人形が売り出されて、市松人形と称されたといいます。
市松人形は、抱き人形とも、三つ折れ人形とも呼ばれ、腰、膝、足首の三ヶ所とともに腕も折れ曲がるように作られているのが一般的です。
本作は、おかっぱ髪に赤の総疋田絞りの振袖を着ています。
素晴らしい手絞り技術で染められたもので、製作当時、総疋田絞り職人は3人ほどしかいなかったといいます。
黒地の帯には、京都でこよなく好まれる光琳菊紋様、一般にまんじゅう菊とも呼ばれる紋様が施されています。
夏衣装は、京都国立博物館所蔵の「帷子(かたびら) 白麻地七夕文様」を本歌として、絽(ろ)に染めたものであります。

20. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ

20. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
ケマンソウは、斜めに伸びた茎にハート型の花がいくつも吊り下がる植物で、ガレの作品によく登場します。
本作はガレの晩年に制作されたとされる希少な作品です。
正面の大胆なレリーフ装飾だけでなく、器の形や背面に彫り込まれた模様に至るまで、一貫してこの花の姿をモチーフとしています。
詩文などは彫られておらず、ガレが本作にどのような心情を重ねたのかを窺い知ることはできませんが、その装飾の密度の高さは、彼がこの花のユニークな生態や可憐な姿にいかに魅了されていたかを物語るようです。
1904年9月23日、ガレは白血病のため亡くなりました。58歳の若さでした。
その翌週に発行されたイリュストラシオン誌には、追悼記事とともにこのケマンソウの花器がうつる写真が掲載されています。
下瀬家では、この作品を、ケマンソウのドイツ語の呼称にちなんで、「ハートの涙」と呼び、ガレによる大きな祭壇風のキャビネットの中央に大切に飾っていました。

21. ニオイアラセイトウ花器
エミール・ガレ

21. ニオイアラセイトウ花器
エミール・ガレ
本作は、ニオイアラセイトウの姿をマルケトリ技法で表現したガレの後期の作品です。
ニオイアラセイトウは、石や岩の間でもよく育つ植物で、西洋では古い城壁などに見られることからウォールフラワーと呼ばれています。
この植物を象ったレリーフ状の装飾は、花や葉、茎だけでなく根っこの部分まで再現されていて、花はガラスの下に挟み込まれた金属箔の効果で光沢を放っています。
その躍動感溢れる姿は、強い生命力を感じさせます。
また、口縁は王冠のような形状をしていて、張り出した腰は厚いガラスに覆われるなど、器のユニークな形も特徴のひとつです。
これには、雌しべや種の形であるとか、花びらが閉じた様子を表しているなど諸説ありますが、ガレの意図は定かではありません。
この作品のバリエーションは多くあり、本作にはない詩や言葉が刻まれているものもあります。
それは、ニオイアラセイトウの花がガレの大きな着想源となっていたことを伺わせます。

22. 風景文花瓶
ドーム

22. 風景文花瓶
ドーム
ドーム兄弟は、しばしば優れた芸術家を雇い、作品のデザインを彼らに委ねました。
中でも、アール・ヌーヴォー時代の様式の確立に大きな貢献を果たした人物が、画家のアンリ・ベルジェです。
ベルジェは、自然に対する鋭い観察眼を活かして、ドームのために多くの植物や風景のデッサンを手掛けました。
この花瓶の風景文も彼によるものと思われます。
本作には、装飾を施したガラスの上に透明なガラスを被せて装飾を挟み込む、アンテルカレールという技法が使われています。
この技法は、表現に奥行きが生まれることから自然主義的なベルジェのデザインを一層引き立てました。
ここでは、乳白色のガラスに様々な色のガラス粉末を焼き付けて層を作り、樹々に囲まれた水辺の風景をエッチングで彫り出した後、上から無色透明ガラスを重ねています。
光の当て方によって、焼き付けたガラス粉末の色が表面に映し出され、様々な色調に変化を遂げる幻想的な作品です。

23. 猫型置物
エミール・ガレ

23. 猫型置物
エミール・ガレ
ガレはガラス工芸だけでなくファイアンスと呼ばれる軟質陶器も手がけました。
これらは、花瓶や装飾皿、燭台や動物型の置物など多岐にわたり、その幅広いデザインはガレの豊かな想像力や様々な着想源を物語っています。
中でも広く知られるのが、猫型の暖炉の装飾品です。
これは、ガレが、父シャルル・ガレの協力者としてデザインを手掛けていた頃に考案されたモデルと考えられています。
実は、当時から「日本猫」と呼ばれていた記録があり、今日では、猫を模した有田焼や薩摩焼がその着想源となった可能性が指摘されています。
ガレの猫には意匠の異なる様々なバリエーションがありますが、本作は、鮮やかな黄色地に藍色の丸やハート型の模様を散りばめた、
ポップで可愛らしい毛並みを持つ作品です。
目にはエメラルド色のガラス玉をはめ、口元には笑みをたたえています。
当館は、この猫の他にガレによる犬を模したファイアンスも所蔵しています。

24. 二人の踊る中国人の子供たち
マイセン窯

24. 二人の踊る中国人の子供たち
マイセン窯
17世紀のヨーロッパには、東洋で作られた磁器が多く持ち込まれ、王侯貴族たちにもてはやされました。
初期のマイセン窯はそれらを手本として磁器の製造を行っていたため、東洋の影響を色濃く受けた作品が残されています。
こうした様式的な傾向はシノワズリと呼ばれ、やがて西洋的な意匠と融合した折衷様式となって最盛期を迎えることになります。
本作は、中国人の子供を表現した首振り磁器人形です。
その原型は、シノワズリの全盛期であった18世紀半ば頃に、彫刻家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーによって作られたと考えられています。
二人の子供はいずれも、大きな葉っぱのような帽子を被り、「インドの花」とも呼ばれる東洋風のカラフルな花模様をあしらった着物を着ています。
右脚を高く上げているのは、今まさに一歩踏み出そうとしているところなのかもしれません。
幼児のようにふっくらとしたお顔とぽっこりと出たお腹が愛くるしい作品です。

25. 風
加山又造

25. 風
加山又造
本作は、1982年の《音》と同様の構図で、ヒマラヤン猫が描かれた作品であります。
タイトルから考えますと、わずかな風が立ったので、耳とヒゲに神経を集中させ、前足と尻尾を緊張させるポーズをとっているように見えます。
柔らかな長い毛でわかりにくいのですが、背中も幾分緊張しているように見えます。
加山又造が猫を主題とした動物画を始めたのは1960年代に入ってからで、最初は短い毛のシャムを神経質なタッチで描いていました。
それが1970年代後半からは、ヒマラヤンに変わり、刺々しい印象も和らいできたように思われます。
そのなかにあっても、目はブルーに描かれ続け、獲物を狙うような澄みきった眼差しも変わらない鋭さをもち合わせています。

26. 月明り
加山又造

26. 月明り
加山又造
加山又造が最初に桜の絵を描いたのは、1972年のことです。
加山は、満開の桜を求めて京都の円山公園に出向き、見事な枝垂桜を見つけて《春朧》を制作しました。
春霞にうるんだ大きな月が、暗闇から豪壮に桜を浮かび上がらせるような構図のものでした。
本作は、おぼろ月に淡く照らされる枝垂桜を主題として1980年代以降に描かれたものであります。
金泥に墨を混ぜて塗りこめた背景の上に、型紙を使いながら桜の花弁部分を胡粉で無数に描いています。
さらに表面を洗い出すようにピンク色で着彩していく手法を用いています。
霞のなかで月光が輝き、枝垂桜を幽玄的に浮かび上がらせる作品です。

27. 欝金香
安田靫彦

27. 欝金香
安田靫彦
タイトルの「欝金香(うっこんこう)」とは、チューリップの別名のことで、本作には、白、赤、ピンク、橙、赤紫の5つの花が、リズム感よく並んで描かれています。
チューリップの花や葉などの形は、単純で絵になりにくいのですが、花壇で並列に開花する姿があまりに素直だったために、安田靫彦も、描く気になったのでしょう。
安田は、もともと歴史画を得意として、草花をテーマとすることは多くありませんでした。
ただ自宅の庭に梅の古木を移植して梅林を作りはじめて以降、梅のモチーフの作品も描きだしたのです。
戦後になると、薔薇やチューリップといった西洋の花にも関心を示したようでした。
本作のチューリップは、戦後の新しい時代に相応しいものとして、明るく素直に伸び伸びと表現されています。

28. 横たわる裸婦
ジュール・パスキン

28. 横たわる裸婦
ジュール・パスキン
パスキンが活躍した1920年代のパリは「狂乱の時代」とも呼ばれ、第一次大戦後に訪れた束の間の平和を謳歌する人々によって、街は活気に溢れていました。
この画家も、昼は制作に励み、夜はモデルや友人たちと賑やかな宴を繰り広げたといいます。
素描を得意としていた彼は、この頃、絵具をテレピン油で薄く溶かして、線描の味を生かした油彩画を描き始めました。
その淡い色彩は「真珠母色」と称されることになります。
本作は、この時期にパリのアトリエで制作されたものです。
パステル調の淡い色彩が施された画面には、豊満な女性の姿が自慢の鉛筆デッサンで的確に捉えられています。
パスキンは、幾度となく宴の舞台となったそのアトリエに、普段から何人ものモデルを出入りさせ、彼女たちの自然な姿を描こうとしていたそうです。
この絵からわずか5年後、彼はその場所で自ら命を絶ちました。それは華やかな時代が終わりを迎えた直後の出来事でした。

29. 座る女
マリー・ローランサン

29. 座る女
マリー・ローランサン
椅子に腰かけるのは、白いドレスに黄色いリボンを合わせた上品な装いの女性です。
華やかな髪飾りや真珠のネックレスを身に着け、左手には一輪のバラを持っています。
大人びた雰囲気を持ちつつも、頬をピンクに染めたその表情にはまだ幼さが残ります。
ローランサンが画家を志した20世紀初頭のパリでは、女性の芸術家はほとんどいませんでした。
そうした環境の中で、まだ無名であったピカソをはじめ、才能豊かな画家や詩人と交流した彼女は、周囲の影響を受けつつも、色彩や形態に対する女性ならではの感性を大切にして、自らの表現を確立していきました。
本作はその画業の後半に描かれた作品です。
グレーの背景に暗い赤色を置き、作品に深みを与えるとともに、若い女性の繊細な内面を巧みに浮かび上がらせています。
ローランサンは、赤や黄色を「男っぽい色」として苦手にしていたそうですが、ここではその色を効果的に使い、円熟した色彩感覚を見せています。

30. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス

30. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス
青いチュチュをつけたダンサーがベンチに座りポーズを取っています。
太い黒の線で捉えられたその姿は、上半身に比べてクロスした脚が逞しく描かれており、力強い印象を与えています。
隣には紫と黄色の花束を入れた花瓶が置かれ、画面に彩を添えています。
70歳を越えたマティスは、1941年、病気のために大きな手術を受けます。
術後に後遺症が残り、多くの時間をベッドで過ごすようになりますが、制作意欲は衰えることがありませんでした。
この時期、体力のいる油彩画ではなく、ベッドの上で描ける木炭や鉛筆を使ったデッサンに集中して取り組んでいます。
そうした影響もあって、油彩画でも、次第に描き込む要素が絞られ、線描やスピード感のある筆触が目立つようになります。
手術の翌年に制作された本作では、堂々とした女性の姿とは対照的に、リズムよく描かれたチュチュの質感や勢いのある筆触が、画面に軽快さと躍動感を与えています。

31. アトリエにて
小磯良平

31. アトリエにて
小磯良平
練習着姿にバレエ・シューズを履いた女性が、アトリエの椅子にもたれて座っています。
本作は、小磯良平の踊り子シリーズの一つとして描かれたものです。
踊り子と聞いて、フランスの印象派の画家エドガー・ドガの作品を思い出す人も多いでしょう。
小磯は、ドガとは少し異なる視点から取り組んでいました。
ドガが、舞台や稽古場で踊っている姿や動いている姿を好んで描いたのに対して、小磯は、アトリエでモデルとして静かにポーズを取っている姿を描いているのです。
小磯が興味を持ったのは、舞台から降りて日常に戻っていく踊り子の様子だったのです。
ここには表現上の工夫も見られます。
小磯はこの時期、古典主義的な手法に加え、実験的な手法も試みていました。
実験的な手法というのは、面的な表現を心掛けることや、椅子などの描写で線描を多用していることです。
ただ、踊り子の顔の表現を見ると、古典的な陰影描写も残しているのが分かります。

32. 花子の優雅な生活
三輪龍氣生(十二代三輪休雪)

32. 花子の優雅な生活
三輪龍氣生(十二代三輪休雪)
本作は、いわゆるオブジェ焼きと言われる陶器製の不思議な乳白色のハイヒールであります。
制作方法としては、各部を轆轤挽きにして、それらを継ぎ合わせて成形し、そこに白萩釉をかけて焼成したものであります。
なぜこのような形ができたのでしょうか。
十二代三輪休雪は、若い頃、萩の窯元を継いで、伝統的な工芸を守っていくのか、芸術家として自由に表現していくのか、立ち位置のジレンマに苛まれていました。
そうしたなかで、東京芸術大学大学院の修了制作に取り組んでいて、生まれたのが「ハイヒール」シリーズでした。
それは、本人が言うように「いつの間にか土でハイヒールが出来て」しまったものでした。
陶芸による造形と自己の自由な表現とが一致した瞬間でありました。
この作品は、1967年の修了制作展、および翌年の個展で発表されて、反響を呼ぶことになります。本作も、それと同系の作品であります。

33. エミール・ガレの庭
エミール・ガレ

33. エミール・ガレの庭
エミール・ガレ
ガレが植物や昆虫をモチーフとする独自の表現を築いた背景には、彼の自然に対する強い関心がありました。
フランスのナンシーの自宅に設けた広大な庭には、温室や湿地、野菜園や果樹園があり、日本の品種を含む3000種類近い植物が植えられていたと言われています。
そこに集まった自然を観察しながら、作品の着想を得るとともに、その神秘の解明にも力を注いだのです。
当館の「エミール・ガレの庭」は、そんなガレの作品に登場する草花を中心に、ここ広島の植生に合わせて構成された庭園です。
庭園内には、池やパーゴラ、ボードウォークなどが設けられていて、春には、ケマンソウやニオイアラセイトウが花を咲かせ、夏には、コウホネやスイレンの花が池に浮かびます。
秋にはイヌサフランが再び姿を現し、冬にはスイセンが水辺を彩ります。
ときには、蝶やトンボなどの昆虫たちにも出会えるでしょう。
ガレの作品とともに彼が愛した自然を心ゆくまでお楽しみください。

