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1. 猿の楽隊
マイセン窯
1. 猿の楽隊
マイセン窯
本作は、18世紀中頃の原型をもとに20世紀中頃に製作された作品です。
原型を製作したヨハン・ヨアヒム・ケンドラーは、1731年にマイセン磁器製作所に入所した彫刻家です。
当時、フランスでは、猿を戯画化して人間の愚かしさを揶揄する風刺画「サンジュリ」が流行っていて、その第一人者のクリストフ・ユエの『サンジュリ、または猿が表す人間の生活の様々な行動』という版画集が出版されていました。
本作は、ケンドラーがその版画集に触発されて作った作品とされています。
本作のオーケストラは、鍵盤楽器、弦楽器、打楽器の各楽器を演奏する猿および合唱隊の猿20匹と、大きく手を振り上げる指揮者の猿1匹、そして譜面台1つの計22ピースから構成されています。
譜面台には、ドイツ民謡「さあ、時は来た」の譜面が小さく書かれています。
2. 二人の踊る中国人の子供たち
マイセン窯
2. 二人の踊る中国人の子供たち
マイセン窯
17世紀のヨーロッパには、東洋で作られた磁器が多く持ち込まれ、王侯貴族たちにもてはやされました。
初期のマイセン窯はそれらを手本として磁器の製造を行っていたため、東洋の影響を色濃く受けた作品が残されています。
こうした様式的な傾向はシノワズリと呼ばれ、やがて西洋的な意匠と融合した折衷様式となって最盛期を迎えることになります。
本作は、中国人の子供を表現した首振り磁器人形です。
その原型は、シノワズリの全盛期であった18世紀半ば頃に、彫刻家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーによって作られたと考えられています。
二人の子供はいずれも、大きな葉っぱのような帽子を被り、「インドの花」とも呼ばれる東洋風のカラフルな花模様をあしらった着物を着ています。
右脚を高く上げているのは、今まさに一歩踏み出そうとしているところなのかもしれません。
幼児のようにふっくらとしたお顔とぽっこりと出たお腹が愛くるしい作品です。
3. 四大陸の寓意
マイセン窯
3. 四大陸の寓意
マイセン窯
四大陸の寓意は、西洋美術において17世紀以降にしばしば見られる主題で、世界の4つの大陸であるヨーロッパ、アジア、アフリカ、アメリカを女性の姿として擬人化して表現したものです。
マイセン窯では、18世紀半ば頃に、ロシアの女帝エリザヴェータ・ペトロヴナからの注文で、四大陸の連作が作られました。
本作はその原型をもとにした作品です。
女性たちはそれぞれ大陸ゆかりの動物を従えていて、ヨーロッパは馬、アジアはラクダ、アメリカはワニの一種カイマン、アフリカはライオンとともに表現されています。
いずれも極彩色の絵付けを施した華やかな作品ですが、女性の衣装や周囲に配置されたモチーフからは、この主題が流行した時代の西洋中心的な大陸のイメージが伺えます。
ヨーロッパを表す作品では、地球儀や書物、胸像やパレットが学問や芸術における指導的な役割を意味し、甲冑や楯は戦争における強さを表すなど、その優位性が強調されているのです。
4. 四大元素
マイセン窯
4. 四大元素
マイセン窯
四大元素は、自然界を構成する4つの基本要素、地、水、火、風を指します。
西洋美術の古典的なテーマとしても知られ、その多くはギリシャ神話を用いて寓意的に表現されてきました。
マイセン窯では、1741年頃、彫刻家ヨハン・ヨアヒム・ケンドラーによって、四大元素をテーマとする水差しの形をした連作が制作され、フランス宮廷へ贈呈されました。本作もその原型に基づく作品です。
当館が所蔵するのは4連作のうち「風」と「水」を表す作品です。
「風」は、孔雀を連れた女神ヘラや西風の神ゼフィロスを中心に、バグパイプを持つプットや鳥といった風に関連するモチーフに彩られています。
一方、「水」は、海の神ポセイドンが配下を見渡す構図で装飾され、海上には半馬半魚の怪物ヒッポカンポスや海の精ネレイス、船やイルカなどの姿が見えます。
いずれも彫像の貼り付けや浮彫りを組み合わせたダイナミックな造形で、多彩なモチーフを巧みにまとめ上げています。
5. 貼花装飾テーブル
マイセン窯
5. 貼花装飾テーブル
マイセン窯
本作は、丸い天板と支柱を3本の短い猫脚が支える磁器製のテーブルです。
天板の中央に、金彩による唐草文様の飾り窓を設けて、男女が西洋双六に興じる様子を色鮮やかに描いています。
支柱には、手捻りで成形した花々やゴシキヒワと思しき小鳥の彫像を配して、極彩色の釉薬を施しています。
19世紀のマイセン窯は、他社との競争の激化から技術改革を迫られ、ライバルであるフランスのセーヴル窯の技術や様式に傾倒していきました。
天板の鮮やかな瑠璃色や金彩文様には、そうした影響が見て取れます。
一方、支柱に見られる優美な装飾は、マイセンの最盛期であるロココ時代の様式を取り入れたもので、新たなスタイルを模索する当時のマイセンの内情が伺えます。
ちなみに、天板に描かれた絵は、18世紀フランスの画家二コラ・ランクレによる作品《一日の四つの時:午後》がもとになっています。
実際には、画面を左右反転して描いた複製版画を下絵としているようです。
6. ほおづえ(椅子)
岡本太郎
6. ほおづえ(椅子)
岡本太郎
「芸術は、爆発だ」といって活躍した岡本太郎の表現領域は、絵画にとどまることなく、彫刻や「太陽の塔」などのモニュメント、グラス、時計、ネクタイ、家具などにまで及んでいました。
岡本は、芸術が特定の美術愛好家のもとだけに留まることを嫌い、大衆の眼に触れてもらうことを望みました。
それゆえ、パブリックアートの制作や日用品のデザインを手がけるとともに、映画や舞台の美術装置の制作、テレビへの出演も積極的にしていったのです。
本作も家具デザインの一環として制作された椅子で、座り心地の良さを求めたものではなく、座ることもできる身近なアートとして制作されたものであります。
椅子とはいえ、円形の背もたれは人の目鼻のある顔をもち、その骨格は有機的なフォルムをもっていて、芸術という生命のある椅子ともいえるものです。
7. ピエロ
三岸好太郎
7. ピエロ
三岸好太郎
三岸好太郎が、ピエロに関心を持ったのは、中国旅行で上海を訪ね、サーカスを見た、1926年からのことでありました。
よほど印象的だったようで、その華やかな光景を散文詩として残しています。
ただし、本作のピエロは、ひとり静かに佇み、暗い背景から浮かび上がっています。
そこに、サーカスの華やかさはなく、むしろ哀愁さえ漂っているようにみえます。
三岸は、ジョルジュ・ルオーが描くピエロの作品から影響を受けていたようで、ピエロの外見ではなく、笑いを作り出すその内面性、および自分自身を見つめようとしていたと思われます。
8. 私の村の酔っぱらい(勲章)
鴨居玲
8. 私の村の酔っぱらい(勲章)
鴨居玲
鴨井玲は、スペインの人物像を描く画家として有名です。
1971年からスペインのバルデペーニャスという小村に住み始め、村人たちと親しく交わるなかで、「酔っぱらい」や「おばあさん」など生涯のテーマをつかんでいきます。
とくに1973年の個展で発表した「私の村の酔っぱらい」シリーズは評判を呼び、鴨居の代表作となっていきました。
本作は、真っ暗い画面の中から酔っぱらいの白くなった髪と赤黒い顔が浮か上がってくる作品です。
酔っぱらいは腰に手をやって胸を突き出して、勲章をひけらかしているように見えます。
彼の人生がどのようなものか想像できませんが、単なる酔っぱらいではなく、戦争で何らかの武功をあげていて、酔うとそんな話ばかりをしていたのかもしれません。
本作は、1974年のパリでの個展に出品された作品で、当初、《チョコレートのメダル》と題されていたものです。
9. 祈り
香月泰男
9. 祈り
香月泰男
香月泰男は、過酷なシベリア抑留を体験した画家として知られています。
旧満州に動員されていた香月は、第二次大戦終戦直後にソ連軍により極寒の地シベリアに連行され、2年間の強制労働の生活に耐えた後に帰国したのです。
そうした体験をもとに描かれたのが「シベリヤ・シリーズ」でした。
本作の中央の黒い画面には、人物の顔と手が粗い筆致で描かれています。
その顔は、肉が落ち、目がくぼみ、頬骨が突き出たように見えます。
その手は、合掌して祈っているように見えます。
本作は、「シベリヤ・シリーズ」の《涅槃》に関連する作品です。
香月は、シベリアの過酷な環境で死者が出るたびに、その顔を紙の片隅にスケッチしていたのですが、それらは結局、ソ連兵に取り上げられてしまいました。
その多くの顔を描いたのが《涅槃》であり、そのひとつを採りあげたのが本作でした。
そこには死者への追悼とともに、静かで深い嘆きや悲しみを見ることができます。
10. 萬朶妙韻大本師尊両薩屏風
棟方志功
10. 萬朶妙韻大本師尊両薩屏風
棟方志功
棟方志功は、美術品を独自の言葉で呼びます。木版画のことを、板の画と書いて板画と呼んだり、日本画のことを倭画と呼んだりしていました。
本作は、他に類作の見当たらない二曲一双屏風の日本画です。作品名にある「萬朶」とは、たくさんの植物のことで、次の「妙韻」とは、美しい音色こと、また、「本師」は、釈迦を意味し、「両薩」は、普賢菩薩と文殊菩薩を指します。
普賢菩薩は、仏の理性を司り、文殊菩薩は、智慧を司ります。
本作では、左隻に緑の髪に紺の衣の普賢菩薩、右隻に青い髪に赤い衣の文殊菩薩が立ち、それぞれの脇に天女が侍しています。
その背後には、植物の枝や葉、花、さらに孔雀などが極彩色で描かれています。
棟方は、難解な仏教の世界を、親しみやすい図像で易しく描き出すのを得意としていて、本作においても、我々の住む世界が仏の教えにあふれていることを表現しています。
11. 本行 蘭陵王
七世大木平藏製
11. 本行 蘭陵王
七世大木平藏製
本作は、舞楽の「蘭陵王」の衣裳人形と大太鼓を組合せた作品です。
この舞楽は、中国6世紀の北斉の蘭陵王として知られる高長恭が勇猛な仮面をつけて戦に臨んで勝利したという故事を題材にしたもです。
蘭陵王があまりにも美しい容貌をもっていたために、兵卒たちの士気が下がることを恐れて常に仮面をつけて戦ったという伝説が残っています。
広島厳島神社でもよく舞われる舞楽で、その装束が特徴的です。
蘭陵王は、毛で縁取られた紅白の毛縁裲襠を着て、朱の緒のついた金帯を締め、指貫袴をはいています。
そして頭に小さな龍の載る吊り顎の金の仮面を被っています。
後ろには、「火焔太鼓」ともいわれる左右一対の大太鼓が置かれ、撥を持って踊る蘭陵王の堂々とした姿が強調されています。
12. 紫色の花束
マルク・シャガール
12. 紫色の花束
マルク・シャガール
20世紀を代表する芸術家マルク・シャガールは、最初の妻ベラへの愛をテーマとした絵画を多く描き、「愛の画家」とも呼ばれました。
そんな彼にとって、特別な意味を持つモチーフが花束です。
それは1915年7月7日、シャガールの誕生日の出来事でした。
ベラがナナカマドの花束を持ってお祝いに来てくれたのです。
その後、2人はすぐに結婚しますが、以来、花束は愛のシンボルとして、故郷であるロシアのヴィテブスクの風景や抱き合う恋人たちの姿とともに描かれるようになりました。
本作では、花瓶に生けられた紫色の花束が中央に大きく描かれています。
背景の青は、画家のアトリエがある南フランスの空と海の色です。
左下には、故郷の思い出につながる赤いロバとベラと思われる人物が寄り添うように横たわっています。
シャガールは、愛妻ベラを第二次大戦中に亡くしますが、追憶の中で生きるその姿を情感溢れるマチエールと色彩で描き続けました。
13. ダビデとバテシバ
パブロ・ピカソ
13. ダビデとバテシバ
パブロ・ピカソ
旧約聖書に登場する「ダビデとバテシバ」の物語は、西洋絵画に古くから描かれてきたテーマでもあります。
画面の上部、王冠を被りハープを手に持つ人物が、イスラエルの王ダビデです。
その視線の先には、足を洗ってもらうバテシバの姿が描かれています。
バテシバは、ダビデに仕える兵士ウリヤの妻でした。
しかし、その美しい水浴姿に欲情したダビデは、バテシバに言い寄って妊娠させ、それを隠すために彼女の夫ウリヤを死に追いやります。
この行いは神の怒りに触れ、相次ぐ悲劇がダビデを襲うことになるのです。
ここでは、物語の行く末を暗示するかのように、周囲の人物たちが不穏な空気を醸し出しています。
本作は、ルネサンス期の画家ルーカス・クラナッハによる絵画を大胆にデフォルメした連作版画の1枚です。
ピカソは、古典衣裳を身にまとった人物たちを装飾的かつ戯画的に線描し、抽象的とも古典主義的ともとれる独自の世界を展開しています。
14. 少女の頭部
アメデオ・モディリアーニ
14. 少女の頭部
アメデオ・モディリアーニ
アメデオ・モディリアーニは、エコール・ド・パリを代表する芸術家のひとりです。
その絵画は、肖像画という伝統的な形式を取りながらも、鼻筋の通った顔立ちや瞳のない目、長く引き伸ばされた首といった独自の様式で描かれ、人物の内面に深く迫ります。
こうした絵画様式の下地となったのが、彫刻の制作でした。
彼は、パリに来て間もなく彫刻家ブランクーシと出会い、本格的に彫刻を手掛けるようになります。
このとき、アフリカの仮面や彫刻など非西欧圏の芸術に影響を受け、その素朴で力強い造形を作品に取り入れていきました。
本作は、この時期に制作された石の彫刻をもとに鋳造したブロンズ彫刻のひとつです。
モディリアーニの肖像の特徴である長い鼻や首、瞳のない眼を備えています。
彫刻の探究は、材料調達の困難さや体力的な問題などから長くは続きませんでしたが、彼はその経験をもとにして、20世紀の絵画に新たな表現を提示してくことになるのです。
15. メイ
藤田嗣治
15. メイ
藤田嗣治
藤田嗣治は、猫の画家とも呼ばれるように猫を好んで題材としましたが、犬の絵も描いています。
本作は、黒いプードルを描いた作品です。
この絵が描かれた1939年、藤田は8年ぶりにフランスを訪れていましたが、第2次世界大戦の勃発を受け、夏の期間を友人の猪熊源一郎とフランス南西部にあるレゼジー村で過ごしていました。
画面の書き込みにありますように、本作はそのレゼジー村滞在中に制作されたものであります。
画面中央に、プードルの母犬が横たわり、そこに2匹の小さな子犬がよちよちと歩いています。
藤田は全体的にモノトーンに抑えられた色調を使い、床の硬質さや、犬の毛並みの違いなど、質感を意識して描き分けています。
足元の覚束ない子犬を気遣いつつも、こちらにやや警戒した視線を向ける母犬の表情には、迫りくる戦火への藤田の不安や深刻化する世界情勢が反映されているのかもしれません。
16. 狻猊猛威図
竹内栖鳳
16. 狻猊猛威図
竹内栖鳳
ここに迫力のあるライオンの顔が描かれています。
日本では古くより唐獅子という空想上のライオンが描かれてきましたが、実際のライオンを初めて描き出したのが竹内栖鳳でした。
竹内は、1900年のパリ万国博覧会出品に伴ってヨーロッパを訪れ、その際にベルギーの動物園のライオンを熱心にスケッチしました。
帰国後の1901年、新古美術品展覧会で獅子図を発表し、その実物に近いリアルな描写で人々を驚かせました。
本作もそのひとつで、縦長の画面いっぱいにライオンの顔を大きく描き、尻尾の先端を右下に少し入れて、その大きな全体像を想像させています。
また毛の一本一本まで描き、髭と毛が絡み合うところまで丁寧に表現しています。
ちらみに、上野動物園で初めてライオンが飼育されて人気を博したのは、本作と同じ1902年のことでした。
17. 猫型置物
エミール・ガレ
17. 猫型置物
エミール・ガレ
ガレはガラス工芸だけでなくファイアンスと呼ばれる軟質陶器も手がけました。
これらは、花瓶や装飾皿、燭台や動物型の置物など多岐にわたり、その幅広いデザインはガレの豊かな想像力や様々な着想源を物語っています。
中でも広く知られるのが、猫型の暖炉の装飾品です。
これは、ガレが、父シャルル・ガレの協力者としてデザインを手掛けていた頃に考案されたモデルと考えられています。
実は、当時から「日本猫」と呼ばれていた記録があり、今日では、猫を模した有田焼や薩摩焼がその着想源となった可能性が指摘されています。
ガレの猫には意匠の異なる様々なバリエーションがありますが、本作は、鮮やかな黄色地に藍色の丸やハート型の模様を散りばめた、
ポップで可愛らしい毛並みを持つ作品です。
目にはエメラルド色のガラス玉をはめ、口元には笑みをたたえています。
当館は、この猫の他にガレによる犬を模したファイアンスも所蔵しています。
18. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス
18. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス
青いチュチュをつけたダンサーがベンチに座りポーズを取っています。
太い黒の線で捉えられたその姿は、上半身に比べてクロスした脚が逞しく描かれており、力強い印象を与えています。
隣には紫と黄色の花束を入れた花瓶が置かれ、画面に彩を添えています。
70歳を越えたマティスは、1941年、病気のために大きな手術を受けます。
術後に後遺症が残り、多くの時間をベッドで過ごすようになりますが、制作意欲は衰えることがありませんでした。
この時期、体力のいる油彩画ではなく、ベッドの上で描ける木炭や鉛筆を使ったデッサンに集中して取り組んでいます。
そうした影響もあって、油彩画でも、次第に描き込む要素が絞られ、線描やスピード感のある筆触が目立つようになります。
手術の翌年に制作された本作では、堂々とした女性の姿とは対照的に、リズムよく描かれたチュチュの質感や勢いのある筆触が、画面に軽快さと躍動感を与えています。
19. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
19. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
ケマンソウは、斜めに伸びた茎にハート型の花がいくつも吊り下がる植物で、ガレの作品によく登場します。
本作はガレの晩年に制作されたとされる希少な作品です。
正面の大胆なレリーフ装飾だけでなく、器の形や背面に彫り込まれた模様に至るまで、一貫してこの花の姿をモチーフとしています。
詩文などは彫られておらず、ガレが本作にどのような心情を重ねたのかを窺い知ることはできませんが、その装飾の密度の高さは、彼がこの花のユニークな生態や可憐な姿にいかに魅了されていたかを物語るようです。
1904年9月23日、ガレは白血病のため亡くなりました。58歳の若さでした。
その翌週に発行されたイリュストラシオン誌には、追悼記事とともにこのケマンソウの花器がうつる写真が掲載されています。
下瀬家では、この作品を、ケマンソウのドイツ語の呼称にちなんで、「ハートの涙」と呼び、ガレによる大きな祭壇風のキャビネットの中央に大切に飾っていました。
20. 少女
ピエール=オーギュスト・ルノワール
20. 少女
ピエール=オーギュスト・ルノワール
レースの帽子を被った女の子がひとり佇んでいます。
白いブラウスに赤いスカートを履いた装いで、長い髪には赤い髪飾りをつけているのが見えます。
手には棒のようなものを持ち、何かを見つめているようです。
ルノワールは、パリの裕福な人々の間に顧客をもち始めた頃から、その家族の肖像画を依頼されることも多く、子供たちの姿をよく描いています。
1885年、44歳の時に長男ピエールが誕生すると、その後、次男ジャン、三男クロードと3人の子宝に恵まれ、その関心は身近な子供たちにも向けられるようになりました。
息子たちだけでなく、その友達や近所の子供たちにモデルを頼むこともあったそうです。
この小さな作品のモデルが誰なのかは分かっていませんが、ルノワールは、そのふっくらとした顔を丁寧に描いています。
一方、帽子や衣服には素早いタッチが残り、少女の姿は背景の緑に溶け込むようにも見えます。
余白を残しながら、珠玉の小品に仕上げています。
21. バザンクール草原・秋
カミーユ・ピサロ
21. バザンクール草原・秋
カミーユ・ピサロ
この作品は印象派の中心的な画家であるカミーユ・ピサロの油彩画です。
ピサロは、ポントワーズやモンフーコーといったフランスの小さな田舎町を転々としていましたが、1884年にエプト川のほとりにあるエラニー村へと移り、以降、この地を拠点として制作に励みます。
本作は、その対岸に広がるバザンクール村の風景です。
画面の下部に干し草を集める農婦の姿が小さく描かれ、遠くには家々の点在するのどかな田園が広がります。
画家は、この村の風景を、季節や時間、天候の異なる様々な条件のもとで描いています。
本作では、色づいた木々の葉が秋の気配を伝えています。
ピサロは、エラニー村へ移住後、若い画家たちの影響を受けて点描画法に取り組みました。
しかし、絶え間なく変化する自然やそこから受けた感動を表現しきれないと悟り、やがて印象派の技法へと回帰していきます。
画面に重ねられた細かな筆の跡は、その名残といえるでしょう。
22. 家族のつどい
アンリ・ルソー
22. 家族のつどい
アンリ・ルソー
20世紀になると、正式な美術教育を受けず、独学で制作を行う人たちの作品にも評価の目が向けられるようになりました。
素朴派とも呼ばれるこうした芸術家たちの先駆けとなったのが、「税関吏ルソー」の愛称で知られる画家アンリ・ルソーです。
彼はパリ市の入市税関に長く勤めていて、本格的に絵を描き始めたのは40歳頃だったと言われています。
その後、パリの街や熱帯雨林の風景を、遠近法にとらわれない素朴で平面的な表現により、幻想的な世界として描き出しました。
本作は、森でパーティーをする家族を描いたものです。
画面には、緑に囲まれるなか、子供は花を抱え、大人たちはワイングラスを傾けながら、ほぼ全員が正面を向くというどこか不思議な光景が広がっています。
ルソーは妻や子供たちに先立たれるなど度重なる悲劇を経験したとされています。
本作には、幸せな家族に対するルソーの思いが表わされているのかもしれません。