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ごあいさつ
ごあいさつ
2024年、春。開館一周年記念として「加山又造―革新をもとめて」展を開催いたします。
加山又造は戦後の日本画壇を牽引し、伝統と革新の狭間で独自の芸術世界を築き上げた画家として知られています。加山の没後20周年を迎える本年、深遠なる作品群とその精神を、開館一周年を迎える下瀬美術館で改めて皆様に御覧いただけますことを大変光栄に思います。
加山は晩年に文化勲章を受章し、戦後の日本画家として代表的な存在となりました。また、BMW社の招聘や大英博物館での個展開催など国際的な発表を行い、国際的にも日本を代表するアーティストの一人となりました。
本展では、初期の意欲作《蒼き日輪》を始め、晩年に力を注いだ水墨画、そして昭和の陶芸の巨匠たちとの共作にいたるまで、加山又造の多岐にわたる創作活動の一端をご紹介いたします。
加山作品は、西欧絵画、やまと絵、琳派、中国絵画など古今東西の絵画や芸術を引用し戦後日本の美意識と照合させながら、自然の風景や生命あるものの姿を描いてきました。鋭く、大胆に、時に繊細で緻密に表現される動物たち、草木、波や山々などの形はいずれも様式化や装飾性など日本の造形美の特性を活かしつつ、自然と生命と人類の文化への崇敬の念を感じさせる絵画として完成されています。
故郷の京都で幼少年期に身に着けた日本古来の美意識と、敗戦を経て受けた衝撃と社会の変化の中で創作行為に向かった加山が、自らの作品にどのような新規性を求め、日本の芸術の先端に立つ革新者として活躍したのかをご来場の皆様にご体感いただけましたら幸甚です。
2023年4月
主催者一同
I 動物・自然
I 動物・自然
加山は、第二次大戦後の社会で批判された日本画の在り方を踏まえ、動物を主題とする作品に取り組みました。
加山が最初にヒントにしたのはラスコー洞窟壁画でした。上野動物園に通って動物を写生し、動物をモチーフとした新しい日本画の可能性を探ったのです。また北方ルネサンスやキュビスム、シュルレアリスムなどの西洋絵画の造形手法も貪欲に研究し、日本画に活かせる部分を利用しようとしました。
加山は「草食動物の悲しさや、肉食獣の孤独、そして彼等の強靭な生命力」を観察し、「その動物たちの様相を、当時の自分自身の生活心情、情況にひき合わせ」ようとしました。
1950年の創造美術春季展で研究会賞を受賞しました。1951年、新しい新制作協会日本画部で新作家賞を受賞し、1956年には29歳の若さで新制作協会会員に推されました。加山は、日本画革新の若き旗手としてその名を馳せるまでになったのでした。
また、自然もよく描きましたが、なかでも雪景図をとくに好みました。
1957年の名作《冬》では、狼やカラスの背景として雪山を描きましたが、1950年代末になると動物のいない冬景色を描き、厳寒の冬山に関心を向けるようになります。さらに1960年代になると、冬も雪山へ取材に行き、美しい景色を探して歩きまわりました。白馬や浅間山、北アルプス連峰、北海道の山を巡り、雪に覆われた山々を描いたのでした。
加山は、自分自身を素直にさらけ出せる場所として雪山を好みました。伝統的な日本画に対抗して革新的な日本画を切り拓こうとして孤独だった自分を、雪に覆われた山中を巡ることによって回復させたようです。
1. 凝
加山又造
1. 凝
加山又造
加山又造は、1970年代後半からヒマラヤンをモチーフにしていて、本作では子猫を採りあげています。
体全体は銀色っぽいのですが、顔や足、尻尾が黒っぽいこげ茶色の毛に覆われ、目だけが青く光っているように見えます。
体型はまん丸くて生後数ヶ月しか経っていないような感じで、何にでも興味を持って近づいていく習性が見られる頃だと思われます。
失敗しながらも、相手が敵なのか味方なのかを見極めていくのでしょう。
この作品の子猫がみせる表情は、見知らぬものと出会い、それを凝視しているのですが、まだ緊張感が走っていない段階の描写と思われます。
加山は、ただ可愛いだけの猫ではなく、野性を隠し持っている猫の姿を描き出そうとしたのです。
2. 風
加山又造
2. 風
加山又造
本作は、1982年の《音》と同様の構図で、ヒマラヤン猫が描かれた作品であります。
タイトルから考えますと、わずかな風が立ったので、耳とヒゲに神経を集中させ、前足と尻尾を緊張させるポーズをとっているように見えます。
柔らかな長い毛でわかりにくいのですが、背中も幾分緊張しているように見えます。
加山又造が猫を主題とした動物画を始めたのは1960年代に入ってからで、最初は短い毛のシャムを神経質なタッチで描いていました。
それが1970年代後半からは、ヒマラヤンに変わり、刺々しい印象も和らいできたように思われます。
そのなかにあっても、目はブルーに描かれ続け、獲物を狙うような澄みきった眼差しも変わらない鋭さをもち合わせています。
3. 音
加山又造
3. 音
加山又造
本作は、1982年の《凝》と同様の構図で、ヒマラヤン猫が描かれた作品であります。
加山又造は、その初期に毛の短いシャムを描き、1970年代後半から毛の長いヒマラヤンを題材としてきました。
ここでは、全体に栗毛色ながら、顔や足、尻尾が黒っぽいこげ茶色のヒマラヤンで、音に反応したかのように、後を向いて耳をそばたて、尻尾も少し立てています。
加山は、猫の毛を一本一本丁寧に描くことによって、その存在をリアルなものにしていきますが、栗毛色と思われた毛を近づいて見ると金泥を使っていることが分かります。
暗い背景に一匹の猫というシンプルな構図ですが、金泥の使用により、そこに華美にならない程度の装飾性を加えているのです。
4. 月明り
加山又造
4. 月明り
加山又造
加山又造が最初に桜の絵を描いたのは、1972年のことです。
加山は、満開の桜を求めて京都の円山公園に出向き、見事な枝垂桜を見つけて《春朧》を制作しました。
春霞にうるんだ大きな月が、暗闇から豪壮に桜を浮かび上がらせるような構図のものでした。
本作は、おぼろ月に淡く照らされる枝垂桜を主題として1980年代以降に描かれたものであります。
金泥に墨を混ぜて塗りこめた背景の上に、型紙を使いながら桜の花弁部分を胡粉で無数に描いています。
さらに表面を洗い出すようにピンク色で着彩していく手法を用いています。
霞のなかで月光が輝き、枝垂桜を幽玄的に浮かび上がらせる作品です。
5. 雪煙ノ嶺
加山又造
5. 雪煙ノ嶺
加山又造
加山又造は、その初期に枯れ木の並ぶ雪景色を好んで描いています。
その物悲しい風景が、作風に悩んでいた加山の心の内を映し出すのに相応しかったようです。
1960年代頃から加山は、美しい風景を求めて各地の雪山を取材して回るようになり、1980年代以降、その取材をもとに、写実的でありながらも理想的な雪山の構図を描くようになります。
本作は、北アルプス連峰を描いた作品です。
加山は、北アルプスについて、「朝夕も美しいが、殊に一夜、吹雪に吹き荒れ、翌朝、真っ青に晴れ上がった鮮やかな空に輝く白銀の鋭い峰は、非常に素晴らしい。」と語っています。
この作品にも、晴れ上がった青空に、雪の積もった木の輪郭と高く聳える山の稜線がくっきりと浮かび上がる白銀の美しい雪景色が描かれています。
加山にとって雪山は、尽きることのない魅力をもった自然であり、長年にわたり描き続けた大切な主題のひとつなのです。
Ⅱ 水墨画
Ⅱ 水墨画
加山は、色彩の鮮やかな風景を描く一方で色彩を抑制したモノクロームに近い作品も試みています。ただ水墨となるとさすがの加山にもなかなかの難敵で、技術習得に10年の歳月を要したほどでした。水墨画を発表したのは、50歳を過ぎた1978年の個展の時でした。
加山が目指したのは日本に馴染みのある牧谿(もっけい)や馬遠(ばえん)という南宋系の水墨ではなく、李成(りせい)や范寛(はんかん)といった北宋系の水墨でした。それは峻厳な山々を雄大に表現するものでした。「倣北宋水墨」と題して李成などの複製を基に実験的な倣作(原作に倣った作品)をいくつか試みたのでした。
加山は、1982年に中国・安徽省(あんきしょう)にある黄山を初めて旅をしました。以降、《黄山霖雨》《黄山湧雲》などこの世界遺産の景勝地などを題材にした水墨画を描いてきました。黄山は、海抜千メートル級の奇岩の如き峰々に雲海が覆われる絶景の地で、古来、多くの文人が訪れて、漢詩や水墨の題材となってきました。
1995年の《黄山雲海》も、加山がそれらの文人に加わるべく正面から雲海の黄山に挑戦した作品です。伝統的なぼかし、たらし込みといった水墨の技法に加え、エアブラシなど革新的な技法を併用して、林立する山々の奥行きある空間を、雲海の湿潤のある空気とともに描き出しました。
Ⅲ 工芸
Ⅲ 工芸
加山の父親は、衣装図案家であり、特に豪華な帯の意匠に定評がありました。加山は幼いころから父親の工房で遊び、その空気を吸って育ちました。加山は19歳の時に父親を若くして亡くしたため、着物の絵付に特別な思いがあったようです。着物の絵付には伝統的な約束事がありますが、加山はあえてそれを破りながら描いています。そこに面白さを感じていたといいます。
加山の陶芸への関心は、富士宮市の大石寺大客殿陶板壁画を加藤唐九郎と合作した時(1963年)から始まります。その時に加藤から陶器について教えられ、その後も折に触れ薫陶を受け、陶器の師として慕いました。
本格的に陶芸に取り組むのは、加山の妹が陶芸家・番浦史郎の兄と結婚して以後でした。番浦が三重県伊賀上野に工房を作ると、加山もそこに仕事場を設けて、番浦との合作を数多く制作したのでした。加山の陶芸の装飾は、本阿弥光悦など琳派風の文様、つまり鶴文や波模様、牡丹文などを加えるものを基本としました。
金重素山との合作は、日本経済新聞社の園城寺次郎の肝いりで1985年に行われたものでした。金重の備前焼は釉薬を使わない焼き締めですが、金重は加山の装飾性を鑑みて白化粧の素地のものを多く用意しました。加山は、岡山の特設の工房で大鉢や茶碗などと二日間に渡って向き合い構想をめぐらせました。心構えが決まると一気呵成に、器との調和に配慮しながら絵筆を自在に進めました。白化粧の素地のものには金彩、銀彩で、焼き締めのものには釘彫りで装飾を加えていきました。画題は梅や撫子、蔦などで、近くで見ると絵として、離れて見ると器に溶け込むような文様を施したのでした。
その他、東京美術学校時代の同窓生である第十代大樋長左衛門や第十三代今泉今右衛門、鈴木藏、長男の加山哲也との合作陶器も多く制作しました。
6. 蒼い日輪
加山又造
6. 蒼い日輪
加山又造
一見するとどういう作品か分かりにくいのですが、よく見ると、痩せこけ干からびたカラスが、裸木につかまってうつむいているのが分かります。
しかもカラスは、盲目で、くちばしを大きく開けて鳴いています。
背後に、厳しく寒い北国の雪空が広がり、中央の大きな太陽が炎を伴って暗く燃えているように描かれ、衝撃的ともいえる荒涼感がただよっています。
なぜこのような絵が描かれたのでしょうか。
第二次大戦後、「日本画滅亡論」が唱えられ、日本画においても新しい表現を必死に模索していた時期がありました。
加山又造は、鳥や動物の生命感を、ブリューゲルなどの影響による広大な自然空間に置いて描き始めていました。
彼は、当時の自身の心情に照らしながら、新しいスタイルを創り出していったのです。
戦後の先の見えない状況の中、経済的にも苦しい生活を送っていた加山の不安や苦しさがそこに表されているのでしょう。
7. つかのま
小倉遊亀
7. つかのま
小倉遊亀
小倉遊亀は、若い頃から禅に傾倒していました。座禅の修養は、作画にも影響を及ぼし、己の心を無にしてこそ初めて美をつかむことができると考えるようになりました。
本作のモチーフである梅も禅に繋がっています。梅は、寒さに長く耐えて春の初めに開花させることから、苦しい修行に耐えて悟りを開く境地に例えられることがあるからです。小倉は、自らの人生を鑑みながら、庭に咲く紅白や淡い紅色などの様々な梅を描くようになりました。
本作は、小倉が車椅子に乗りながら自邸の庭で梅を見ている時に着想した構図です。背景の色鮮やかな赤は、小倉の敬愛するマティスからの影響が見られもので、白梅の白い花と、染付の花器を効果的に際立たせています。さらに、左下に散った花びらを描き、梅の「つかのま」の美しさを強調しているのです。
8. 緑の詩
東山魁夷
8. 緑の詩
東山魁夷
池畔の森が横長の画面に描かれています。
森は、鏡のような水面にも映し出され、白馬を緑で包み込んでいます。
東山魁夷は、木々の芽がいっせいに吹きだす季節に「森や林は緑のオンパレード」となり、そこに「白馬が一頭、静かに左から右へと歩き出し」ていると述べ、その馬が「何かを訴えているようだった」としました。
白馬は、1972年の「白い馬の見える風景」シリーズ以来、10年ぶりの登場で、作品を幻想的で動きのある表現にさせる特別なモチーフでありました。
それもそのはずで、本作は、東京の帝国劇場の緞帳用原画として描かれたものであり、幕が上がるのを待つ観客たちの目を楽しませる構図でもありました。
その色調も、糸で織りあげることを前提に諧調をやや抑え気味にしています。なお、その緞帳は2012年頃まで使われていたようです。
9. 月光厳島
平山郁夫
9. 月光厳島
平山郁夫
上空に満月が煌々と輝き、正面に客神社の祓殿や東回廊が浮かび上がり、水平線に大鳥居が小さく見えます。
東回廊には釣灯籠が黄色く点り、穏やかな波にもその光が写されています。これは、広島県出身の平山郁夫が力を入れて描いた夜の厳島神社の風景です。
平山郁夫といえば、1980年代のシルクロードブームの中で仏教伝来のテーマで注目された画家ですが、一方で、讃岐や吉備路、大和路など日本の原風景を1988年頃から描きはじめていました。
その流れの中で、厳島神社も4枚パネルの大作に描き1993年の院展に出品しています。
本作は、厳島神社をテーマにしたひとつで、月光に浮かびあがる社殿を、高価な顔料であるラピズラズリの群青色を惜しげもなく使って描いています。
そのため、そこに青く穏やかな精神的な世界が広がっているように見えるのです。
10. 白川女
小磯良平
10. 白川女
小磯良平
白川女とは、かつて京都の町において花を売り歩いていた女性のことを指します。
紺色の小袖に前掛け、白の下着、頭と襟に白地の手拭いという特徴的な姿をしていたのです。
本作の女性は、花を頭上に抱えているわけでも、京都の町を歩いているわけでもありません。
小磯良平のアトリエで白川女の衣裳を着てポースをとって、静かにこちらを見つめているだけです。
小磯は、特にモデルの衣装に強い関心をもっていて、気になる衣装は自分で取り寄せるだけではなく、時には自らデザインして作らせたりもしていたようです。
白川女の衣裳もそうして準備されたものなのです。
それほど用意周到な小磯ですが、背後に他の作品のモチーフとなったと思われる楽器や家具が雑然と描いているのが不思議です。
その世界観のギャップが、女性の存在と、衣装の紺や白、赤の色彩の対比を際立たせているのです。
11. 大原女
小磯良平
11. 大原女
小磯良平
大原女とは、かつて京都の町において薪などを売り歩いていた女性のことを指します。
黒の小袖に紅の帯、白の手甲と下着、頭に白の手拭という特徴的な姿をしていたのです。
本作は、小磯良平がアトリエでモデルに大原女の衣装を着させて描いたものですが、不思議な構図の作品になっています。
というのも、一つの画面に、正面から見た姿、右斜めから見た姿、左斜めから見た姿、そして立ち姿を詰め込んでいるからです。
まるで、座りながら回っている姿を連続で描いたようにも見えます。
このような構図になったのは1950年代後半に、小磯がキュビスム風の画面構成を試みていたことに由来すると考えられます。
かなり実験的な作品といえるもので、強弱のある大胆な線描もそのためで、配色のリズムに対する小磯の徹底した計算もその延長線上のあるものなのです。
12. アトリエにて
小磯良平
12. アトリエにて
小磯良平
練習着姿にバレエ・シューズを履いた女性が、アトリエの椅子にもたれて座っています。
本作は、小磯良平の踊り子シリーズの一つとして描かれたものです。
踊り子と聞いて、フランスの印象派の画家エドガー・ドガの作品を思い出す人も多いでしょう。
小磯は、ドガとは少し異なる視点から取り組んでいました。
ドガが、舞台や稽古場で踊っている姿や動いている姿を好んで描いたのに対して、小磯は、アトリエでモデルとして静かにポーズを取っている姿を描いているのです。
小磯が興味を持ったのは、舞台から降りて日常に戻っていく踊り子の様子だったのです。
ここには表現上の工夫も見られます。
小磯はこの時期、古典主義的な手法に加え、実験的な手法も試みていました。
実験的な手法というのは、面的な表現を心掛けることや、椅子などの描写で線描を多用していることです。
ただ、踊り子の顔の表現を見ると、古典的な陰影描写も残しているのが分かります。
13. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
13. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
ケマンソウは、斜めに伸びた茎にハート型の花がいくつも吊り下がる植物で、ガレの作品によく登場します。
本作はガレの晩年に制作されたとされる希少な作品です。
正面の大胆なレリーフ装飾だけでなく、器の形や背面に彫り込まれた模様に至るまで、一貫してこの花の姿をモチーフとしています。
詩文などは彫られておらず、ガレが本作にどのような心情を重ねたのかを窺い知ることはできませんが、その装飾の密度の高さは、彼がこの花のユニークな生態や可憐な姿にいかに魅了されていたかを物語るようです。
1904年9月23日、ガレは白血病のため亡くなりました。58歳の若さでした。
その翌週に発行されたイリュストラシオン誌には、追悼記事とともにこのケマンソウの花器がうつる写真が掲載されています。
下瀬家では、この作品を、ケマンソウのドイツ語の呼称にちなんで、「ハートの涙」と呼び、ガレによる大きな祭壇風のキャビネットの中央に大切に飾っていました。
14. 花瓶「フランスの薔薇」
エミール・ガレ
14. 花瓶「フランスの薔薇」
エミール・ガレ
毒々しい深紅の蕾と棘をまとった枝葉が、優しいピンクの器にからみつくように表現されています。 モチーフとなっているのは、学名ロサ・ガリカ、通称「フランスの薔薇」です。
フランスのロレーヌ地方では、メス近郊の山にしか咲かないとされたこの薔薇を、ガレは愛国心の象徴として用いました。
普仏戦争後、ドイツに割譲されたロレーヌの地で変わらず咲き続ける薔薇の姿に、領土奪還を願う思いを込めたのです。
ガレは、晩年に、ナンシー中央園芸協会の会長を退任するレオン・シモンのために、この薔薇をモチーフとした脚付きの大きな杯を制作しています。
それは、普仏戦後に故郷のメスを離れてフランス国籍を選択し、バラの研究に尽力したシモンへのオマージュでもありました。
本作は、その杯のデザインの一部を展開させた作品のひとつです。
ガレの思いを伝えるように、小さな蕾が重厚な存在感を放っています。
15. ニオイアラセイトウ花器
エミール・ガレ
15. ニオイアラセイトウ花器
エミール・ガレ
本作は、ニオイアラセイトウの姿をマルケトリ技法で表現したガレの後期の作品です。
ニオイアラセイトウは、石や岩の間でもよく育つ植物で、西洋では古い城壁などに見られることからウォールフラワーと呼ばれています。
この植物を象ったレリーフ状の装飾は、花や葉、茎だけでなく根っこの部分まで再現されていて、花はガラスの下に挟み込まれた金属箔の効果で光沢を放っています。
その躍動感溢れる姿は、強い生命力を感じさせます。
また、口縁は王冠のような形状をしていて、張り出した腰は厚いガラスに覆われるなど、器のユニークな形も特徴のひとつです。
これには、雌しべや種の形であるとか、花びらが閉じた様子を表しているなど諸説ありますが、ガレの意図は定かではありません。
この作品のバリエーションは多くあり、本作にはない詩や言葉が刻まれているものもあります。
それは、ニオイアラセイトウの花がガレの大きな着想源となっていたことを伺わせます。
16. ひとよ茸文花瓶
エミール・ガレ
16. ひとよ茸文花瓶
エミール・ガレ
ひとよ茸は、春から秋にかけて枯れ木などに生えるキノコで、細長い柄に灰色の傘を持ちます。
成長すると、傘が一夜にして溶けて、黒い液状になってしまうことからこの名がつきました。
自然を創作の源泉としたガレは、その生態に命の儚さを感じ取り、作品で表現しようとしたのでしょう。
晩年に制作された《ひとよ茸ランプ》は、ガレの作品の中でも特によく知られ、現存する6点のうち2点が日本の美術館に収蔵されています。
本作もひとよ茸を表現した作品のひとつです。
ガレは、層状に重ねたガラスの下に装飾を挟み込むなど、技法を尽くして、器の表面に幻想的な自然の風景を作り出しています。
そこでは、蜘蛛の巣や枯れ葉など自然界の死を連想させるモチーフとともに、ひとよ茸の姿が表されています。
5本のひとよ茸は、その成長過程を示すかのようにそれぞれ傘の開きが異なっていて、ガレが、その儚い生命を丹念に表現しようとする様子が伺えます。