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1. スフレ花文ランプ
ガレ
- 1. スフレ花文ランプ
- 2. 猫型置物
- 3. チューリップ型ランプ
- 4. ゴブレット「ジャック・カロの人物画」
- 5. カラフェとグラス
- 6. ジャンヌ・ダルク文花瓶
- 7. 蝶文花瓶
- 9. ひとよ茸文花瓶
- 10. 花瓶「フランスの薔薇」
- 11. ハートの涙(ケマンソウ)
- 12. 椅子「桜」
- 13. イヌサフラン文花瓶
- 14. シクラメン文花器
- 15. ニオイアラセイトウ花器
- 16. 蘭文耳付花瓶
- 17. 木の実文花瓶
- 18. 雪景文花瓶
- 19. エナメル彩鶴首花瓶
- 20. 虫文キャビネット
- 21. 蓮文花瓶
- 22. 雪中松文花器
- 23. 紫色の花束
- 24. 青いチュチュの踊り子
- 25. 薔薇図
- 26. 薔薇
- 27. 仁王像
- 28. 六代菊五郎所演 鏡獅子(獅子奮迅三昧)
- 29. 日の出(瀬戸内海)
- 30. 富士山図
- 31. 東海の朝
- 32. 蓬莱山
- 33. 大観山の富士
- 34. 長刀鉾
- 35. 病める子
- 36. ランプの下の静物
- 37. 少女の頭部
- 38. メイ
- 39. 鳥と少女
- 40. 女のポートレート
- 41. 横たわる裸婦
- 42. 座る女
- 43. ムーラン・ド・ラ・ギャレット
1. スフレ花文ランプ
ガレ
ガレは、展覧会に出品するような高級品を手掛ける一方で、芸術を大衆へ広めるという大義の下、デザインや制作工程を簡略化した廉価な作品の製造販売も行っていました。
批判的な声があったにもかかわらず、こうした生産体制が継続された背景には、彼が芸術家であると同時に経営者でもあるという現実的な事情もあったのでしょう。
とはいえ、芸術の大衆化という目標は、ガレ亡き後の工房にも引き継がれていきました。
高度な加工技術による高級品は作られなくなりますが、品質管理された安価な花器やランプの製造が続けられ、ガレとサインされたガラスは広く流通していきました。
1920年代には、型を使ってガラスを成形する技術を応用して、量感のある浮彫り装飾を作り出すスフレ技法の作品が人気を得ました。
本作は、スフレ技法を用いたこの時期を代表するランプです。
シャクナゲの花を表現した鮮やかなデザインは、アール・ヌーヴォーの特徴を色濃く残しています。
2. 猫型置物
エミール・ガレ
2. 猫型置物
エミール・ガレ
ガレはガラス工芸だけでなくファイアンスと呼ばれる軟質陶器も手がけました。
これらは、花瓶や装飾皿、燭台や動物型の置物など多岐にわたり、その幅広いデザインはガレの豊かな想像力や様々な着想源を物語っています。
中でも広く知られるのが、猫型の暖炉の装飾品です。
これは、ガレが、父シャルル・ガレの協力者としてデザインを手掛けていた頃に考案されたモデルと考えられています。
実は、当時から「日本猫」と呼ばれていた記録があり、今日では、猫を模した有田焼や薩摩焼がその着想源となった可能性が指摘されています。
ガレの猫には意匠の異なる様々なバリエーションがありますが、本作は、鮮やかな黄色地に藍色の丸やハート型の模様を散りばめた、
ポップで可愛らしい毛並みを持つ作品です。
目にはエメラルド色のガラス玉をはめ、口元には笑みをたたえています。
当館は、この猫の他にガレによる犬を模したファイアンスも所蔵しています。
3. チューリップ型ランプ
エミール・ガレ
3. チューリップ型ランプ
エミール・ガレ
19世紀末のヨーロッパでは近代化とともに電球が登場し、1900年のパリ万国博覧会では、たくさんの電灯に照らされた夜の電気館が注目を浴びました。
ガレもこの万博に電気ランプを出品していたようですが、本格的な制作に乗り出すのは少し後の1902年頃のことでした。
すでに病魔に冒され始めていたガレは、1904年に亡くなるまでのわずか時間で、ランプという新たなテーマに力を注いでいくことになります。
本作はガレの生前に作られた数少ないランプのひとつです。
萼のような形状をしたブロンズ製の台座に、チューリップの花を模したガラスのシェードが載っていて、器の形を花や蕾の姿に見立てたガレ後期のガラス作品の特徴を備えています。
電球の明かりで照らされたシェードには、エッチングによる表面処理の跡や、光彩をもった斑紋が煌びやかに浮かび上がります。
そのユニークな斑紋は、ガラスの粉末を不純物と反応させるパチネという技法によるものです。
4. ゴブレット「ジャック・カロの人物画」
エミール・ガレ
4. ゴブレット「ジャック・カロの人物画」
エミール・ガレ
この伝統的な形式のゴブレットは、ガレの初期の作風を示す数少ないガラス作品です。
吹きガラスで成形後、表面にグラヴュールによる装飾を施しています。
杯の上部には、劇場幕風のガーランドにラッパを吹く猿や鶏、ミミズク、猫などの姿を配して、中央部に刀剣を両手に構えた兵士のような人物を表現しています。
この人物は、バロック期の版画家ジャック・カロの連作「小さな道化たち」から取られたモチーフです。
また台座に刻まれた鼻高の顔や文字も、イタリア喜劇を主題としたカロの連作版画「スフェッサーニアの踊り」の一場面をもとにしています。
ナンシー出身のカロは、その幻想的な作風の一方で、戦争の時代を生き、社会の様子を生々しく描きました。
ガレは故郷の偉大な芸術家に敬意を表して、自身の作品にカロのモチーフをよく取り入れています。
普仏戦争を経験し、故郷や祖国への思いを強めていたガレは、カロの作品に心を揺さぶられたのかもしれません。
5. カラフェとグラス
エミール・ガレ
5. カラフェとグラス
エミール・ガレ
1870年7月、フランスは、現在のドイツにあたるプロイセンに宣戦布告し、普仏戦争が始まります。
この戦争に敗れたフランスは、ガレの故郷であるアルザス・ロレーヌ地方の一部をドイツへ割譲することになりました。
志願兵として参加していたガレは、故郷の悲劇を目の当たりにし、大きな衝撃を受けます。以来、彼は故郷や祖国への思いを募らせ、悲劇に屈しない反骨の精神と、奪われた土地がいつか戻ることへの希望を作品に表現するようになりました。
1889年のパリ万国博覧会に出品された本作も、そんなガレの思いが込められた作品です。
カラフェには、杯を掲げる騎士の姿とともに、ナンシー市の紋章にもあるアザミや3羽のアレリオン、獅子、十字架などロレーヌ地方ゆかりの紋章が、浮彫りとエナメル彩で表現されています。
アザミは、古くから棘で敵を撃退すると考えられていて、ガレが領土奪還を願う愛国心の象徴として作品に表現した重要なモチーフです。
6. ジャンヌ・ダルク文花瓶
エミール・ガレ
6. ジャンヌ・ダルク文花瓶
エミール・ガレ
この作品は、エミール・ガレが1889年のパリ万国博覧会のガラス部門で金メダルを受賞するなど、その評価が確立された頃に制作された花瓶です。
形を見ますと、花瓶の胴の部分は、円い肩をもつ細長い漏斗状の形をしていて、安定感のある円形の台座の上に乗っています。
その首は、逆円錐型で、滑らかな口をもっています。
素材を見ますと、ガラスは三層の被せガラスを使っています。
くすんだ緑の層の上に透明の層と褐色の層を乗せたものです。それを深めに彫り、褐色の層を残して装飾模様を作っています。
装飾模様として、戦士に囲まれながら、馬に乗り旗をもったジャンヌ・ダルクが描かれています。
裏面には、王冠と剣、百合を組み合わせた紋章、いわゆるジャンヌ・ダルクの紋章が描かれています。
胴の地の部分には、ホタルブクロウの花の模様が、また首と台座のところには、百合の紋章が施されなど、ひじょうに凝った装飾になっていることがわかります。
7. 蝶文花瓶
エミール・ガレ
7. 蝶文花瓶
エミール・ガレ
ガラスの最大の特徴はその透明度の高さにあります。
ガラス工芸では、透明感を最大限活かすため、製造時に不純物が混ざらないように気を遣うのが一般的でした。
しかし、ガレは、不純物が混ざることによって生じた気泡や斑紋など、本来なら失敗と言われるような現象を、積極的に装飾として取り入れ、ガラスによる表現の可能性を広げていきました。
本作は、透明ガラスに紫やオレンジ色のガラスを部分的に重ねたガレの後期の花瓶です。
胴部には、黄色、赤、紫の3匹の蝶の装飾をマルケトリ技法により施しています。
蝶の翅の模様はそれぞれ異なっていて、目玉模様などのユニークな柄が精巧に表現されているのが分かります。
ガレは、蝶や蛾を作品によく取り入れていますが、特にその翅の模様に関心があったのかもしれません。
素地のガラスには、気泡や黒い斑点などを施すとともに、渦を巻くような彫り込みを加え、蝶がふわふわと浮遊する様子を巧みに表現しています。
9. ひとよ茸文花瓶
エミール・ガレ
9. ひとよ茸文花瓶
エミール・ガレ
ひとよ茸は、春から秋にかけて枯れ木などに生えるキノコで、細長い柄に灰色の傘を持ちます。
成長すると、傘が一夜にして溶けて、黒い液状になってしまうことからこの名がつきました。
自然を創作の源泉としたガレは、その生態に命の儚さを感じ取り、作品で表現しようとしたのでしょう。
晩年に制作された《ひとよ茸ランプ》は、ガレの作品の中でも特によく知られ、現存する6点のうち2点が日本の美術館に収蔵されています。
本作もひとよ茸を表現した作品のひとつです。
ガレは、層状に重ねたガラスの下に装飾を挟み込むなど、技法を尽くして、器の表面に幻想的な自然の風景を作り出しています。
そこでは、蜘蛛の巣や枯れ葉など自然界の死を連想させるモチーフとともに、ひとよ茸の姿が表されています。
5本のひとよ茸は、その成長過程を示すかのようにそれぞれ傘の開きが異なっていて、ガレが、その儚い生命を丹念に表現しようとする様子が伺えます。
10. 花瓶「フランスの薔薇」
エミール・ガレ
10. 花瓶「フランスの薔薇」
エミール・ガレ
毒々しい深紅の蕾と棘をまとった枝葉が、優しいピンクの器にからみつくように表現されています。 モチーフとなっているのは、学名ロサ・ガリカ、通称「フランスの薔薇」です。
フランスのロレーヌ地方では、メス近郊の山にしか咲かないとされたこの薔薇を、ガレは愛国心の象徴として用いました。
普仏戦争後、ドイツに割譲されたロレーヌの地で変わらず咲き続ける薔薇の姿に、領土奪還を願う思いを込めたのです。
ガレは、晩年に、ナンシー中央園芸協会の会長を退任するレオン・シモンのために、この薔薇をモチーフとした脚付きの大きな杯を制作しています。
それは、普仏戦後に故郷のメスを離れてフランス国籍を選択し、バラの研究に尽力したシモンへのオマージュでもありました。
本作は、その杯のデザインの一部を展開させた作品のひとつです。
ガレの思いを伝えるように、小さな蕾が重厚な存在感を放っています。
11. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
11. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
ケマンソウは、斜めに伸びた茎にハート型の花がいくつも吊り下がる植物で、ガレの作品によく登場します。
本作はガレの晩年に制作されたとされる希少な作品です。
正面の大胆なレリーフ装飾だけでなく、器の形や背面に彫り込まれた模様に至るまで、一貫してこの花の姿をモチーフとしています。
詩文などは彫られておらず、ガレが本作にどのような心情を重ねたのかを窺い知ることはできませんが、その装飾の密度の高さは、彼がこの花のユニークな生態や可憐な姿にいかに魅了されていたかを物語るようです。
1904年9月23日、ガレは白血病のため亡くなりました。58歳の若さでした。
その翌週に発行されたイリュストラシオン誌には、追悼記事とともにこのケマンソウの花器がうつる写真が掲載されています。
下瀬家では、この作品を、ケマンソウのドイツ語の呼称にちなんで、「ハートの涙」と呼び、ガレによる大きな祭壇風のキャビネットの中央に大切に飾っていました。
12. 椅子「桜」
エミール・ガレ
12. 椅子「桜」
エミール・ガレ
ガレは若い時からピアノを習い、音楽的な感性も養っていました。
音楽家との交友やオペラ鑑賞などを通して、作品のヒントを得ることもあったようです。
この椅子は1890年に制作されたもので、背もたれに西洋実桜とバイオリンの象嵌装飾が施されています。
生き生きとした枝葉の表現には、バイオリンの音色が聞こえてくるような豊かな詩情が感じられます。
ガレは、この前年のパリ万国博覧会に、糸巻を重ねたような伝統的な造形と中世の楯を模した背もたれを備える一連のダイニングチェアを出品していました。
それらの背もたれには、それぞれ異なる植物図の象嵌装飾が施されていたようで、この椅子もそのバリエーション作品のひとつです。
当館は、万博のために制作された椅子も所蔵しており、それには、2匹の蝶とキイチゴの仲間と思われる植物が表現されています。
この万博で、初めて家具部門に出品したガレは、高い象嵌技術などが評価され、銀賞を受賞しました。
13. イヌサフラン文花瓶
エミール・ガレ
13. イヌサフラン文花瓶
エミール・ガレ
イヌサフランは、春に葉を繁らせた後、一度枯れますが、秋に茎だけを伸ばして、薄紫色の花を咲かせます。
ガレは、その不思議な生態に想像力を搔き立てられたようで、この花を「秋の常夜灯」と呼び、死と再生の象徴としてしばしば作品に取り入れました。
当館が所蔵する作品は、いずれもマルケトリ技法を用いて制作された最初のシリーズに属する花器です。
ガレがその構想を書き留めたメモなどが、フランスのオルセー美術館に残されています。このシリーズをめぐっては、そのモチーフがイヌサフランか、クロッカスかで、専門家の間でも意見が割れていましたが、近年では、ガレが両方の植物の名前で意匠登録をしていたとする報告もあり、クロッカスとする場合も多く見られます。
いずれにしても、これらの作品では、器の形や下から上へと伸びる線状模様も見所のひとつです。
そこには、植物の姿形やその生命力までも表現しようとするガレの意図が表れています。
14. シクラメン文花器
エミール・ガレ
14. シクラメン文花器
エミール・ガレ
ガレは、1900年のパリ万国博覧会の準備段階で、国からある部門の副委員長に指名されましたが、これを辞退しています。
それは、国選による無監査の出品者としてではなく、コンクールの参加者として自らが追求してきた芸術を世界に問い、より大きな成功を得るための決断でした。
そんな彼が、この万博のために開発したガラス技法のひとつが、「ガラスの象嵌技法」、通称マルケトリです。
この技法は、まだ熱いガラスの表面に、あらかじめ用意しておいた色ガラスの破片を貼付けて、加熱しながら素地にならし込むもので、木工家具にも取り組んでいたガレが、木の象嵌技法にヒントを得て着想したとも言われています。
本作は、器の胴部にシクラメンの花や葉、茎をマルケトリ技法で表現した作品です。
今日残された写真から、これとよく似た花器が、1900年のパリ万博で、「孤独の中の休息」と題されたガレによる展示ケースに並んでいたことが分かっています。
15. ニオイアラセイトウ花器
エミール・ガレ
15. ニオイアラセイトウ花器
エミール・ガレ
本作は、ニオイアラセイトウの姿をマルケトリ技法で表現したガレの後期の作品です。
ニオイアラセイトウは、石や岩の間でもよく育つ植物で、西洋では古い城壁などに見られることからウォールフラワーと呼ばれています。
この植物を象ったレリーフ状の装飾は、花や葉、茎だけでなく根っこの部分まで再現されていて、花はガラスの下に挟み込まれた金属箔の効果で光沢を放っています。
その躍動感溢れる姿は、強い生命力を感じさせます。
また、口縁は王冠のような形状をしていて、張り出した腰は厚いガラスに覆われるなど、器のユニークな形も特徴のひとつです。
これには、雌しべや種の形であるとか、花びらが閉じた様子を表しているなど諸説ありますが、ガレの意図は定かではありません。
この作品のバリエーションは多くあり、本作にはない詩や言葉が刻まれているものもあります。
それは、ニオイアラセイトウの花がガレの大きな着想源となっていたことを伺わせます。
16. 蘭文耳付花瓶
エミール・ガレ
16. 蘭文耳付花瓶
エミール・ガレ
エミール・ガレは、ガラス工芸の作家であるとともに、植物学者でもありました。
少年の頃から、植物が好きで、植物学者の指導を受けながら植物採集標本づくりに熱中し、後には、地元ナンシーの園芸協会の設立に関わったり、専門誌に論文を発表したりするほどになりました。
それゆえ、作品の文様の植物は、品種まで見分けられるほど忠実に描写されています。
本作も、ラン科の一種、パフィオペディルムの花とシダの葉をモチーフとした花瓶ということがわかります。
花瓶の胴の部分に、紫色とピンク色、金色のエナメル彩によって詳細に花が描かれています。
ガレは、花のなかでもとりわけランに心を寄せ、亡くなるまでランの研究をしていたといいます。
そんなランの花の華麗さを、繊細なシダの葉と組み合わせることによって際立たせたのだと考えられます。
17. 木の実文花瓶
ドーム
17. 木の実文花瓶
ドーム
ドームは、1900年のパリ万国博覧会のために、同じナンシーで活動していた彫刻家エルネスト・ビュシエールの陶器のデザインをガラスに応用した作品を制作しています。
植物の姿を器の形に取り入れたビュシエールのデザインは、ドームのフォルムに対する考え方に大きな影響を与えることになりました。
こうした背景には、すでに花や蕾の姿を作品そのものの形として取り入れていたガレに対抗する意味もあったのかもしれません。
やがて、ドームは、昆虫や植物の姿をアップリケによる立体的な装飾や器の形体として表現するようになっていきます。
本作では、セイヨウカリンと思われる木の枝葉や実の姿が立体的に表現されています。
ガラスを熔着して作られた葉が青葉であるのに対して、器の表面に彫り出された葉は赤や黄色に色づいています。
秋に葉が紅葉し、実が熟していく、木々の移ろいを表現しようとしたのでしょう。
そこにドームの日本的な感性を見ることができます。
18. 雪景文花瓶
ドーム
18. 雪景文花瓶
ドーム
ドーム家は、元々フランス北東部のビッチュに暮らしていましたが、1870年に始まった普仏戦争の後、ドイツ領となった故郷を離れ、1878年にナンシーでガラス工場をスタートさせます。
当初は、食器などの日用品を製造していましたが、兄オーギュストと弟アントナンによる共同経営が始まると、やがて工芸品の制作に乗り出し、次第に頭角を現していきました。
ドーム兄弟の人気を支えたのがエナメル彩による風景文様の作品でした。
この雪景文は、様々な形の器やランプに使われた代表的なデザインです。
黄色とオレンジの斑紋を施したガラスを成型し、その表面にモチーフの姿をエッチングで浮き彫りにした後、木立に雪が積もる冬の情景をエナメル彩で描いています。
大小の木々を巧みに配して風景に奥行きを表すとともに、エナメルを厚く重ねて積雪した地面の質感を出すなど、その表現は実に絵画的です。
マーブル模様のガラス地は夕焼けに染まる背景として機能しています。
19. エナメル彩鶴首花瓶
エミール・ガレ
19. エナメル彩鶴首花瓶
エミール・ガレ
本作は、ふっくらと丸く膨らんだ腰に長い首がのる特徴的なフォルムの花瓶です。
表面の装飾は、エッチングによる彫刻とエナメル彩や金彩を織り交ぜたもので、すやり霞や糸菊、蝶の姿など日本美術の影響を感じさせるモチーフが表現されています。
元々、西洋の菊は一重咲きで、本作に描かれる八重咲きの品種は珍しいものでした。
ガレは、日本人の高島得三に宛てた名刺に、「菊の国について高島さんにお尋ねしたいことがたくさんあります」と書き残しています。
日本を「菊の国」と表現するほど、菊の姿に強い印象を抱いていたのです。
高島得三は、政府の役人でありながら、のちに「高島北海」の名で画家としても活動した人物です。
当時の中央官庁のひとつであった農商務省から派遣され、約3年間、ナンシーの森林学校に留学していました。
早くから日本美術に関心を抱いていたガレにとって、彼との交流が刺激的な出来事であったことは想像に難くありません。
20. 虫文キャビネット
エミール・ガレ
20. 虫文キャビネット
エミール・ガレ
ガレは、学生時代からフランス、ロレーヌ地方の野原や森で植物採集に熱中していました。
それは、たくさんの昆虫と触れ合う時間でもあったのでしょう。
ガレの作品では、植物と同様に小さな昆虫たちも装飾の主役となりました。
本作には、向日葵などの象嵌装飾とともに、蛾や蝶、蝸牛、蜂、蝉などが浮き彫りで表現されています。
実物よりも大きくなったその姿は、グロテスクなまでに細部が強調され、異様な存在感を放っています。
蝶番などの金具も蜻蛉やカミキリムシの姿に象るなど、ガレのこだわりが詰まった作品です。
ガレが家具の製造を始めた理由については諸説ありますが、彼自身によれば、自作の花瓶を載せる台座を求めて銘木店を訪れた際に、木材の木目模様や色調の豊さに魅了されたことがきっかけだったそうです。
こうして木材の蒐集やそれらを組み合わせることから始まった家具制作は、やがて自然の形体を取り入れた造形的な探求にも広がっていきました。
21. 蓮文花瓶
エミール・ガレ
21. 蓮文花瓶
エミール・ガレ
エミール・ガレのガラス作品は、華やかで装飾的なイメージがありますが、実は悲しげで暗いイメージの作品も多く作っています。
ガレは、1889年のパリ万国博覧会に、黒いガラスを使った作品、後に「悲しみの花瓶シリーズ」と名付けられたものも含めて出品してグランプリを受賞しています。
透明ガラスに黒いガラスを被せて、グラインダーで彫りこんでいくグラヴュールという高度な彫刻技法を使って作られていました。
本作は、半球状に低く膨らんだ下部にやや太くて長い首、少し外反りした口縁をもつ花瓶で、蓮の花と葉による文様が大胆に装飾されたものです。
透明ガラスが現れるまで彫り込んで、残された黒いガラスの部分が文様となっている作品です。
蓮の文様は、中国や日本で仏教に結び付いた文様として広く使われていますが、ガレは、この東洋的な文様を写実的に静かに描きだしています。
22. 雪中松文花器
エミール・ガレ
22. 雪中松文花器
エミール・ガレ
ガレは、しばしば、古今の詩文から引用した言葉を装飾に取り入れました。
言葉によって、隠されたテーマや自らの心情を暗示し、作品をいっそう象徴性豊かなものにしようとしたのです。
その背景には、工芸品を絵画や彫刻のような芸術の域へと高めたいと願うガレの強い意志がありました。
本作は、黄緑色に発色したウラン・ガラスに白色のガラスを被せて、壺型に成型した花器です。
素地に白いガラスの粉末を仕込んで、雪が舞う様子を表すとともに、表面には、モチーフの輪郭をエッチングで彫り込んで、松の実や枝葉をエナメル彩により描いています。
雪と松という題材や繊細な雪の表現には、日本画等の影響が見て取れます。
胴に刻まれた詩文は、ガレと同時代の詩人シュリ・プリュドムによる「舞踏会の女王」の一節で、「冬の涙/不幸な人々の涙のように」というもの。
降りしきる雪を涙に例えたその言葉は、寒さや雪の重みに耐える松の声なき声を伝えているようです。
23. 紫色の花束
マルク・シャガール
23. 紫色の花束
マルク・シャガール
20世紀を代表する芸術家マルク・シャガールは、最初の妻ベラへの愛をテーマとした絵画を多く描き、「愛の画家」とも呼ばれました。
そんな彼にとって、特別な意味を持つモチーフが花束です。
それは1915年7月7日、シャガールの誕生日の出来事でした。
ベラがナナカマドの花束を持ってお祝いに来てくれたのです。
その後、2人はすぐに結婚しますが、以来、花束は愛のシンボルとして、故郷であるロシアのヴィテブスクの風景や抱き合う恋人たちの姿とともに描かれるようになりました。
本作では、花瓶に生けられた紫色の花束が中央に大きく描かれています。
背景の青は、画家のアトリエがある南フランスの空と海の色です。
左下には、故郷の思い出につながる赤いロバとベラと思われる人物が寄り添うように横たわっています。
シャガールは、愛妻ベラを第二次大戦中に亡くしますが、追憶の中で生きるその姿を情感溢れるマチエールと色彩で描き続けました。
24. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス
24. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス
青いチュチュをつけたダンサーがベンチに座りポーズを取っています。
太い黒の線で捉えられたその姿は、上半身に比べてクロスした脚が逞しく描かれており、力強い印象を与えています。
隣には紫と黄色の花束を入れた花瓶が置かれ、画面に彩を添えています。
70歳を越えたマティスは、1941年、病気のために大きな手術を受けます。
術後に後遺症が残り、多くの時間をベッドで過ごすようになりますが、制作意欲は衰えることがありませんでした。
この時期、体力のいる油彩画ではなく、ベッドの上で描ける木炭や鉛筆を使ったデッサンに集中して取り組んでいます。
そうした影響もあって、油彩画でも、次第に描き込む要素が絞られ、線描やスピード感のある筆触が目立つようになります。
手術の翌年に制作された本作では、堂々とした女性の姿とは対照的に、リズムよく描かれたチュチュの質感や勢いのある筆触が、画面に軽快さと躍動感を与えています。
25. 薔薇図
梅原龍三郎
25. 薔薇図
梅原龍三郎
梅原龍三郎は、桜島や富士山などの風景画に定評がありますが、花の静物画にも優品を残しています。
梅原は、1939年に北京を訪れた時に、万暦赤絵の花瓶を気に入って持ち帰りました。
帰国後に、その豪華な器に負けない花として選んだのが、薔薇でした。
梅原は、薔薇について、次のようなことを述べています。
「ばらの殊に開こうとする非常に弾力のあるふくらみとか、螺旋状が自分には興味を刺激して描きたくなる」と。
薔薇の生命力が制作の原動力になったのです。
本作は、数多い薔薇図の中でも、珍しく重心の低い角形花瓶との組み合わせを描いたものです。
テーブルに果物鉢と果物も添えて、安定感のある構図にしています。
また、赤と緑のコントラストの強い色遣いにしていますが、明度を抑えているためか、穏やかにさえ見えるのが不思議です。
26. 薔薇
林武
26. 薔薇
林武
林武は、三角錐を基本とする独自の構成理論や、厚塗りのマチエールに黒い輪郭線など、により個性の強い作品を制作していました。
浅間山や富士山など風景画を得意のモチーフにしていましたが、薔薇の静物画も多く残しています。
本作は、カラフルな色絵の角型花瓶に、溢れんばかりに活けられた薔薇の花束を描いたものです。
背景にもテーブルにも鮮やかな赤を使っているものの、そこに黄色や赤、紫、白など色彩豊かな薔薇を黒い輪郭線で描き、強烈に浮き立たせています。
緑の葉は、多くを占めていないものの、色彩のバランスを取る上で重要な役割を果たしています。
27. 仁王像
高村光雲
27. 仁王像
高村光雲
高村光雲は、幕末の仏師、高村東雲の弟子であり、もともと仏像を専門としていました。
1877年、25歳の時には、内国勧業博覧会に自作「白衣観音」を師匠の東雲の名前で出品し 一等賞を受賞したほどの腕を持っていました。
日本の木彫というのは、明治初期に衰退期を迎えていましたが、高村は、写実的な感覚を取り入れた新しい作風をもって近代木彫を推進していきました。
一方で、多くの仏像、とくに観音立像や仁王像(いわゆる金剛力士像)なども残しました。
高村の仁王像として有名なのは、長野市の善光寺仁王門に設置された高さ5.3mの像で、門弟の米原雲海とともに制作され、高さ1.5mの試作も善光寺に所蔵されています。
高さ55㎝の本作は、善光寺の仁王像の型とは違い、口を開けた阿形を向かって右に置き、その左手を振り上げて金剛杵を握る伝統的な型になっています。
本作は、多くの仏像がそうであるように門弟とともに制作された高村の工房作と考えられる作品です。
28. 六代菊五郎所演 鏡獅子(獅子奮迅三昧)
平櫛田中
28. 六代菊五郎所演 鏡獅子(獅子奮迅三昧)
平櫛田中
「鏡獅子」とは、歌舞伎舞踊のひとつで、正式には、「春興鏡獅子」と呼ばれるものです。
明治期に九代目市川団十郎により初演され、昭和期に六代目尾上菊五郎によって完成された、絢爛華麗な出し物であります。
平櫛田中は、1936年に東京の歌舞伎座で六代目尾上菊五郎の鏡獅子が上演されると、25日間通い詰めて、彫刻にすることを決意しました。
自分の目で様々な角度から観察し、同時に写真を撮ってもらい、さらに菊五郎に相談して、裸体でモデルになってもらうことを依頼したのです。
その後、戦争を挟んで中断しましたが、多くの試作を重ねて、約20年の歳月をかけて完成させた鏡獅子は、現在も東京の国立劇場に設置されています。
本作は、その国立劇場の四分の一の縮小版で、田中が100歳のときの作品です。
長年の研究に裏打ちされた衣裳の下に隠れた肉体表現や、躍動感あふれる絢爛な衣装やかつらの着色には、年齢を感じさせない力強さがあります。
29. 日の出(瀬戸内海)
藤島武二
29. 日の出(瀬戸内海)
藤島武二
藤島武二は、日本のロマン主義の画家で、情感豊かな作品を残しました。
代表作に、白いベールを着けた女性が黒い扇をもつ《黒扇》があり、その繊細な色彩の取り合わせが目を引きます。
本作は、瀬戸内海の日の出の風景画で、日の出を大きなテーマとしていた頃の作品です。
藤島は、昭和天皇の即位に際し、1928年に東宮御学問所を飾る作品の制作を依頼されます。
藤島は、「旭日」をテーマとすることとし、全国の海や山の日の出の描写を研究しはじめました。
三重県鳥羽や瀬戸内海の小豆島などを巡り歩いて、海の風景を描いています。
本作は、穏やかな海に太陽が昇ろうとして、雲を赤く染め、波にも赤く反射している景色です。
空には、2羽の海鳥が羽を広げ、海には、3艘の帆船が浮かび、近景には満潮の岩場が描かれています。
早朝の澄んだ風景ですが、赤から青への繊細なグラデーションが目を楽しませてくれます。
30. 富士山図
梅原龍三郎
30. 富士山図
梅原龍三郎
梅原龍三郎は、第二次大戦中に伊豆に疎開した時、そこから見えた富士山の美しさに感銘を受けました。
戦後になって、富士山を本格的に描こうと思い、伊豆や沼津を訪れるようになります。
この作品は、1951年に伊豆の大仁のホテルに滞在してる時に描き始められ、翌年に完成したものです。
作品をよく見ると、油絵具ではなく、岩絵具で描かれているのが分かると思います。
岩絵具をビニル系溶液で溶かして描くデトランプという技法を使っています。
さらに、金箔を粉にしたものを画面に撒く砂子という技法を空や麓の部分に使っています。
これにより、富士山の美しさがいっそう際立っています。
これが、日本画的な技法を用いた梅原独自の描き方です。
その最高のモチーフが、富士山の構図だったと思われます。
なお梅原は、この作品を描いた年に文化勲章を受章しています。
31. 東海の朝
横山大観
31. 東海の朝
横山大観
この作品は、横山大観が、岡倉天心とともに移り住んでいた茨城県五浦の海を思い出しながら描いたものと考えられます。
それは、横山の30歳代後半のことで、長女を亡くし、家を火災で失い、経済的にも窮乏して、ついには東京に戻るという苦難の時期でありました。
人生の荒波に遭遇したことを忘れないための画題でもありました。
画面左の幹の太い黒松は、背を低くして、強風に耐え、堅牢な岩礁に寄せては返す大きな白波と対峙しています。
また、画面中央の小さな鴎たちは、太平洋の荒々しい風に揉まれながらも、餌を求めて飛び交っています。
こうした厳しい海の情景ではありますが、朝日が昇ってきて、一日の始まりを告げ、明日への希望を抱かせるように表現しています。
32. 蓬莱山
横山大観
32. 蓬莱山
横山大観
本作は、富士山を中国古代の理想郷である蓬莱山に重ねて描かれた図であります。
横山大観は、富士山のテーマを好み、多くの作品を残しました。
横山は当初、季節や時間によって変化する富士山の表情を描き分けることに腐心していましたが、やがて日本の象徴として描くようになりました。
「富士は、いつ、いかなる時でも美しい」と語るように、横山は、生涯にわたってそれを描き続けたのです。
本作では、輪郭線を用いずにぼかす「朦朧体」という技法により、悠然と浮かぶ姿の雲海が描かれ、輪郭線の内側をぼかす「片ぼかし」という技法によって、左手の峰の稜線が描かれています。
さらに聳え立つ楼閣や生い茂る木々も加えられて、奥行きのある雄大な富士の風景としています。
その景色は、かつて日本美術院の再興のために横山が岡倉天心とともに移り住んだ茨城県の五浦海岸の景色とも重なって見えます。
横山は、困難のなかで研鑽を重ねた日々を思い返しているのかもしれません。
33. 大観山の富士
片岡球子
33. 大観山の富士
片岡球子
片岡球子は、多くの富士山図を残しています。
片岡は、1960年代から日本各地の火山を取材して火山画をはじめていて、最終的に富士山のテーマに辿りついています。
片岡は、富士山の周囲を巡りながら、対話をするように様々な角度から写生をし、自分なりの表現で富士山の姿を思いのままに描きました。
本作は、山の稜線や冠雪、雪融けの痕跡を大胆に表現したもので、華やかで活力あふれる富士山が描かれています。
前方手前には、薄桃色の桜の花が咲き、春の訪れを予感させます。
片岡は、富士山に花を供えるよう、また花の絵を描いた着物を着せるよう、富士山とともに花を描き入れました。
この作品の桜の花にも片岡の富士山への感謝の想いが込められています。
34. 長刀鉾
七世大木平藏製
34. 長刀鉾
七世大木平藏製
本作は、夏の風物詩、京都祇園祭における山鉾巡行の先頭を飾る長刀鉾と曳き子たちを模した人形です。
長刀鉾とは、下京区の長刀鉾町の山鉾で、鉾頭に三条小鍛冶宗近作の長刀が用いられたことからその名称がついています。
山鉾内部の天井には、松村景文の金地着彩百鳥図が描かれ、正面と背後それぞれの破風の下に木彫の彩色人物像があります。
山鉾に掛ける水引幕として、朱雀、玄武、白虎、青龍の文様がそれぞれ刺繍され、懸装品として中国玉取獅子図絨毯やペルシャ花文様絨毯が使われるなど、「動く美術館」とも呼ばれています。
太鼓の拍子に子供衆の鉦の音、能管による笛方の調べといった囃子方の祇園囃子が奏でられて、曳き子たちがこの山鉾を手綱で引いていくのです。
大木平藏は、それらの鉾頭から、天井画や木彫、水引幕、懸装品、さらには囃子方や曳き子たちの細部まで忠実に再現しています。
35. 病める子
エドヴァルド・ムンク
35. 病める子
エドヴァルド・ムンク
愛、孤独、不安、絶望、そして死。エドヴァルド・ムンクは、人間につきまとう、言葉では言い表せない複雑な感情や経験を、絵画として力強く描き出した画家です。
彼は22歳の頃、不治の病に侵された少女を油彩画に描きます。これが画家の代表的なテーマである「病める子」を描いた最初の作品となりました。
後に、「私の幼少時代であり、私の家庭であった」と述べたように、このテーマは、5歳で母を、14歳で姉を病で失ったムンク自身の経験と深く結びついています。
度重なる最愛の家族との別れが画家に大きな影を落としていたのです。
「病める子」というタイトルの作品は複数残されていますが、本作は版画で描かれた最初の作品になります。
生気を失いつつある少女と悲しみにうなだれる母親の姿。
少女の顔には、深い絶望と諦めが表われているようです。
一方、ムンクがなぜ、一見主題とは関係のない風景を画面の下に描いたのか、その理由は謎に包まれています。
36. ランプの下の静物
パブロ・ピカソ
36. ランプの下の静物
パブロ・ピカソ
暗闇に灯るランプの明かりが、果物やガラスコップを照らし出しています。
黄色や赤、青、緑という限られた色とシンプルな形で構成された画面には、大らかな線がリズミカルに走り、モチーフに躍動感を与えています。
ピカソは、1958年から63年にかけて、リノカットという版画に集中的に取り組みました。
リノカットは、木の板の代わりに、リノリウムというゴム板に似た素材を用います。
通常、1色刷るごとに1枚のリノリウム板を使うため、多色刷りには複数の板が必要でしたが、ピカソは、1枚の板を使い、少し彫っては1色刷る工程を繰り返して多色刷りにする方法を開発します。
途中での修正が難しいこの方法は、事前の緻密な色彩計画を必要としましたが、その困難がピカソの制作意欲を掻き立てたのかもしれません。
この時期の終わり頃に作られた本作では、リノカットでは難しいとされる細い線の表現が見られるなど、技法的な完成度の高さが伺えます。
37. 少女の頭部
アメデオ・モディリアーニ
37. 少女の頭部
アメデオ・モディリアーニ
アメデオ・モディリアーニは、エコール・ド・パリを代表する芸術家のひとりです。
その絵画は、肖像画という伝統的な形式を取りながらも、鼻筋の通った顔立ちや瞳のない目、長く引き伸ばされた首といった独自の様式で描かれ、人物の内面に深く迫ります。
こうした絵画様式の下地となったのが、彫刻の制作でした。
彼は、パリに来て間もなく彫刻家ブランクーシと出会い、本格的に彫刻を手掛けるようになります。
このとき、アフリカの仮面や彫刻など非西欧圏の芸術に影響を受け、その素朴で力強い造形を作品に取り入れていきました。
本作は、この時期に制作された石の彫刻をもとに鋳造したブロンズ彫刻のひとつです。
モディリアーニの肖像の特徴である長い鼻や首、瞳のない眼を備えています。
彫刻の探究は、材料調達の困難さや体力的な問題などから長くは続きませんでしたが、彼はその経験をもとにして、20世紀の絵画に新たな表現を提示してくことになるのです。
38. メイ
藤田嗣治
38. メイ
藤田嗣治
藤田嗣治は、猫の画家とも呼ばれるように猫を好んで題材としましたが、犬の絵も描いています。
本作は、黒いプードルを描いた作品です。
この絵が描かれた1939年、藤田は8年ぶりにフランスを訪れていましたが、第2次世界大戦の勃発を受け、夏の期間を友人の猪熊源一郎とフランス南西部にあるレゼジー村で過ごしていました。
画面の書き込みにありますように、本作はそのレゼジー村滞在中に制作されたものであります。
画面中央に、プードルの母犬が横たわり、そこに2匹の小さな子犬がよちよちと歩いています。
藤田は全体的にモノトーンに抑えられた色調を使い、床の硬質さや、犬の毛並みの違いなど、質感を意識して描き分けています。
足元の覚束ない子犬を気遣いつつも、こちらにやや警戒した視線を向ける母犬の表情には、迫りくる戦火への藤田の不安や深刻化する世界情勢が反映されているのかもしれません。
39. 鳥と少女
藤田嗣治
39. 鳥と少女
藤田嗣治
藤田嗣治は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人である一方、第二次大戦中の日本では、従軍画家として戦争画を描いた一人でもありました。
戦争画は敗戦後に糾弾の対象となり、藤田自身も批判を浴びることになります。
そして藤田は日本を離れてフランスに渡り、帰化の道を選んだのです。
そうした中で、フランスに戻った藤田が強く惹かれたのは、無垢さと邪悪さを持ち合わせた子どもたちでした。
「私の画の小供が私の息子なり娘なりで、一番愛したい小供だ」。
子どものいなかった藤田はこのように述べ、頭が大きく、目尻の上がった、人形のような顔立ちをした子どもを盛んに描くようになります。
本作では、一羽のセキセイインコを大事そうに抱えて微笑む、あどけない顔をした少女が描かれています。
エコール・ド・パリで称賛を浴びた繊細な線描や陶器のように瑞々しい乳白色の下地も復活し、少女への暖かな眼差しを感じさせる作品に仕上がっています。
40. 女のポートレート
モイズ・キスリング
40. 女のポートレート
モイズ・キスリング
色鮮やかなスカーフを巻いた黒髪の女性。
暗い背景が彼女の艶やかな肌を引き立てています。
口を一文字に結び、虚ろな目で漠然と前を見る姿は、どこか悲しみを抱えているようにも見えます。
エコール・ド・パリを代表する画家モイズ・キスリングは、ポーランドのユダヤ人の家庭に生まれました。
20世紀前半のヨーロッパでは反ユダヤ主義が広まっており、パリに出た彼は、民族的な問題と距離を取りながら制作に励みます。
また、第一次大戦ではフランスの外国人部隊に志願するなど、フランスという国に溶け込むことで差別や迫害を避けようとしたのです。
その一方で、ナチズムなどの反ユダヤ的な動きには強く反発することもありました。
そこにはユダヤ人でありながら、フランス人として生きることへの強い葛藤があったのでしょう。
キスリングの肖像画に漂うメランコリックな雰囲気には、こうした民族的な問題が少なからず影響しているのかもしれません。
41. 横たわる裸婦
ジュール・パスキン
41. 横たわる裸婦
ジュール・パスキン
パスキンが活躍した1920年代のパリは「狂乱の時代」とも呼ばれ、第一次大戦後に訪れた束の間の平和を謳歌する人々によって、街は活気に溢れていました。
この画家も、昼は制作に励み、夜はモデルや友人たちと賑やかな宴を繰り広げたといいます。
素描を得意としていた彼は、この頃、絵具をテレピン油で薄く溶かして、線描の味を生かした油彩画を描き始めました。
その淡い色彩は「真珠母色」と称されることになります。
本作は、この時期にパリのアトリエで制作されたものです。
パステル調の淡い色彩が施された画面には、豊満な女性の姿が自慢の鉛筆デッサンで的確に捉えられています。
パスキンは、幾度となく宴の舞台となったそのアトリエに、普段から何人ものモデルを出入りさせ、彼女たちの自然な姿を描こうとしていたそうです。
この絵からわずか5年後、彼はその場所で自ら命を絶ちました。それは華やかな時代が終わりを迎えた直後の出来事でした。
42. 座る女
マリー・ローランサン
42. 座る女
マリー・ローランサン
椅子に腰かけるのは、白いドレスに黄色いリボンを合わせた上品な装いの女性です。
華やかな髪飾りや真珠のネックレスを身に着け、左手には一輪のバラを持っています。
大人びた雰囲気を持ちつつも、頬をピンクに染めたその表情にはまだ幼さが残ります。
ローランサンが画家を志した20世紀初頭のパリでは、女性の芸術家はほとんどいませんでした。
そうした環境の中で、まだ無名であったピカソをはじめ、才能豊かな画家や詩人と交流した彼女は、周囲の影響を受けつつも、色彩や形態に対する女性ならではの感性を大切にして、自らの表現を確立していきました。
本作はその画業の後半に描かれた作品です。
グレーの背景に暗い赤色を置き、作品に深みを与えるとともに、若い女性の繊細な内面を巧みに浮かび上がらせています。
ローランサンは、赤や黄色を「男っぽい色」として苦手にしていたそうですが、ここではその色を効果的に使い、円熟した色彩感覚を見せています。
43. ムーラン・ド・ラ・ギャレット
モーリス・ユトリロ
43. ムーラン・ド・ラ・ギャレット
モーリス・ユトリロ
20世紀前半、パリのモンマルトルを中心に活躍した画家モーリス・ユトリロ。
彼は自由奔放な母を持ち、幼少期を孤独に過ごしました。
それ故か、若くして酒に溺れ、精神を病んでいきます。
治療のために絵を描き始めたことから、次第に画家としての自覚が芽生え、20代後半から白を多用した風景画で頭角を現しました。
ユトリロの最も充実していたこの時期は「白の時代」と呼ばれています。
本作は白の時代の終わり頃に描かれたモンマルトルの街の風景です。
中央に街のシンボルである風車が2つ並び、右の風車には「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」の文字が見えます。
19世紀にダンスホールとして栄えたムーラン・ド・ラ・ギャレットは、芸術家たちも多く集った場所でした。
本作では、曇り空の下、歩く人影もわずかで、哀愁が漂います。1910年頃になると、多くの芸術家たちがセーヌ川の左岸へと拠点を移しますが、ユトリロはこの街を好み、その風景を描き続けました。