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1. エナメル彩鶴首花瓶
エミール・ガレ

1. エナメル彩鶴首花瓶
エミール・ガレ
本作は、ふっくらと丸く膨らんだ腰に長い首がのる特徴的なフォルムの花瓶です。
表面の装飾は、エッチングによる彫刻とエナメル彩や金彩を織り交ぜたもので、すやり霞や糸菊、蝶の姿など日本美術の影響を感じさせるモチーフが表現されています。
元々、西洋の菊は一重咲きで、本作に描かれる八重咲きの品種は珍しいものでした。
ガレは、日本人の高島得三に宛てた名刺に、「菊の国について高島さんにお尋ねしたいことがたくさんあります」と書き残しています。
日本を「菊の国」と表現するほど、菊の姿に強い印象を抱いていたのです。
高島得三は、政府の役人でありながら、のちに「高島北海」の名で画家としても活動した人物です。
当時の中央官庁のひとつであった農商務省から派遣され、約3年間、ナンシーの森林学校に留学していました。
早くから日本美術に関心を抱いていたガレにとって、彼との交流が刺激的な出来事であったことは想像に難くありません。

2. 虫文キャビネット
エミール・ガレ

2. 虫文キャビネット
エミール・ガレ
ガレは、学生時代からフランス、ロレーヌ地方の野原や森で植物採集に熱中していました。
それは、たくさんの昆虫と触れ合う時間でもあったのでしょう。
ガレの作品では、植物と同様に小さな昆虫たちも装飾の主役となりました。
本作には、向日葵などの象嵌装飾とともに、蛾や蝶、蝸牛、蜂、蝉などが浮き彫りで表現されています。
実物よりも大きくなったその姿は、グロテスクなまでに細部が強調され、異様な存在感を放っています。
蝶番などの金具も蜻蛉やカミキリムシの姿に象るなど、ガレのこだわりが詰まった作品です。
ガレが家具の製造を始めた理由については諸説ありますが、彼自身によれば、自作の花瓶を載せる台座を求めて銘木店を訪れた際に、木材の木目模様や色調の豊さに魅了されたことがきっかけだったそうです。
こうして木材の蒐集やそれらを組み合わせることから始まった家具制作は、やがて自然の形体を取り入れた造形的な探求にも広がっていきました。

3. とんぼ文花器
エミール・ガレ

3. とんぼ文花器
エミール・ガレ
エミール・ガレは、トンボに深い愛着を抱いていたようで、トンボと植物を組み合わせた作品をいくつも制作しています。
ガレは、その形態の美しさに惹かれるとともに、短くはかない生命を象徴するものとして、また卵として水中に生み落とされ、幼虫として沼地などで育ち、成虫として空を飛ぶという生命進化を象徴する昆虫としても捉えていたようです。
本作は、透明なガラスに乳白色と栗色のくもりガラスを被せて、腐食させ、さらに彫り込みを入れて形作られています。
作品には、大小5匹のトンボが、地の部分にあるシダの葉と茎の模様と融合しながら表現されていて、一体的な装飾に見えるようになっています。
器の形は、低く大きく膨れた下部に幅広の首がつき、反りのない口に太めの装飾的な帯がつくという明快な姿のためか、トンボの装飾が目立たずにそこに隠れて見えるという面白さがあります。

4. とんぼ文花瓶
ドーム

4. とんぼ文花瓶
ドーム
ドームが芸術的な高級品を手掛け始めたのは1891年のことでした。
それは、ガレの活躍に触発されてのことだったようです。
以来、ガレはドームにとって良き手本であり、目標でもありました。
ドームは、1900年のパリ万国博覧会で、そんなガレとグランプリを分け合う程、大きな躍進を見せます。
こうした両者の競争は、この時期のガラス工芸の水準を高めていくことになりました。
とんぼとラナンキュラスを表現したデザインは、ドームを代表する意匠のひとつで、様々な形の器やランプに展開されています。
それは、水色と紫の斑紋をもつガラス地に、緑や黄色のガラス粉末を焼き付けて、モチーフの姿を彫り出したものです。
とんぼの頭部と胴は、ガラスの熔着により立体的に表現されています。
とんぼは、ガレが最晩年まで繰り返し表現したモチーフでもありました。
ガレの象徴的な表現に対して、ドームは自然の情景を素直に取り入れて、とんぼの形態美を余すことなく伝えています。

5. 蝶文花瓶
エミール・ガレ

5. 蝶文花瓶
エミール・ガレ
ガラスの最大の特徴はその透明度の高さにあります。
ガラス工芸では、透明感を最大限活かすため、製造時に不純物が混ざらないように気を遣うのが一般的でした。
しかし、ガレは、不純物が混ざることによって生じた気泡や斑紋など、本来なら失敗と言われるような現象を、積極的に装飾として取り入れ、ガラスによる表現の可能性を広げていきました。
本作は、透明ガラスに紫やオレンジ色のガラスを部分的に重ねたガレの後期の花瓶です。
胴部には、黄色、赤、紫の3匹の蝶の装飾をマルケトリ技法により施しています。
蝶の翅の模様はそれぞれ異なっていて、目玉模様などのユニークな柄が精巧に表現されているのが分かります。
ガレは、蝶や蛾を作品によく取り入れていますが、特にその翅の模様に関心があったのかもしれません。
素地のガラスには、気泡や黒い斑点などを施すとともに、渦を巻くような彫り込みを加え、蝶がふわふわと浮遊する様子を巧みに表現しています。

6. 椅子
エミール・ガレ

6. 椅子
エミール・ガレ
ガレは若い時からピアノを習い、音楽的な感性も養っていました。
音楽家との交友やオペラ鑑賞などを通して、作品のヒントを得ることもあったようです。
この椅子は1890年に制作されたもので、背もたれに西洋実桜とバイオリンの象嵌装飾が施されています。
生き生きとした枝葉の表現には、バイオリンの音色が聞こえてくるような豊かな詩情が感じられます。
ガレは、この前年のパリ万国博覧会に、糸巻を重ねたような伝統的な造形と中世の楯を模した背もたれを備える一連のダイニングチェアを出品していました。
それらの背もたれには、それぞれ異なる植物図の象嵌装飾が施されていたようで、この椅子もそのバリエーション作品のひとつです。
当館は、万博のために制作された椅子も所蔵しており、それには、2匹の蝶とキイチゴの仲間と思われる植物が表現されています。
この万博で、初めて家具部門に出品したガレは、高い象嵌技術などが評価され、銀賞を受賞しました。

7. バザンクール草原・秋
カミーユ・ピサロ

7. バザンクール草原・秋
カミーユ・ピサロ
この作品は印象派の中心的な画家であるカミーユ・ピサロの油彩画です。
ピサロは、ポントワーズやモンフーコーといったフランスの小さな田舎町を転々としていましたが、1884年にエプト川のほとりにあるエラニー村へと移り、以降、この地を拠点として制作に励みます。
本作は、その対岸に広がるバザンクール村の風景です。
画面の下部に干し草を集める農婦の姿が小さく描かれ、遠くには家々の点在するのどかな田園が広がります。
画家は、この村の風景を、季節や時間、天候の異なる様々な条件のもとで描いています。
本作では、色づいた木々の葉が秋の気配を伝えています。
ピサロは、エラニー村へ移住後、若い画家たちの影響を受けて点描画法に取り組みました。
しかし、絶え間なく変化する自然やそこから受けた感動を表現しきれないと悟り、やがて印象派の技法へと回帰していきます。
画面に重ねられた細かな筆の跡は、その名残といえるでしょう。

8. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス

8. 青いチュチュの踊り子
アンリ・マティス
青いチュチュをつけたダンサーがベンチに座りポーズを取っています。
太い黒の線で捉えられたその姿は、上半身に比べてクロスした脚が逞しく描かれており、力強い印象を与えています。
隣には紫と黄色の花束を入れた花瓶が置かれ、画面に彩を添えています。
70歳を越えたマティスは、1941年、病気のために大きな手術を受けます。
術後に後遺症が残り、多くの時間をベッドで過ごすようになりますが、制作意欲は衰えることがありませんでした。
この時期、体力のいる油彩画ではなく、ベッドの上で描ける木炭や鉛筆を使ったデッサンに集中して取り組んでいます。
そうした影響もあって、油彩画でも、次第に描き込む要素が絞られ、線描やスピード感のある筆触が目立つようになります。
手術の翌年に制作された本作では、堂々とした女性の姿とは対照的に、リズムよく描かれたチュチュの質感や勢いのある筆触が、画面に軽快さと躍動感を与えています。

9. 紫色の花束
マルク・シャガール

9. 紫色の花束
マルク・シャガール
20世紀を代表する芸術家マルク・シャガールは、最初の妻ベラへの愛をテーマとした絵画を多く描き、「愛の画家」とも呼ばれました。
そんな彼にとって、特別な意味を持つモチーフが花束です。
それは1915年7月7日、シャガールの誕生日の出来事でした。
ベラがナナカマドの花束を持ってお祝いに来てくれたのです。
その後、2人はすぐに結婚しますが、以来、花束は愛のシンボルとして、故郷であるロシアのヴィテブスクの風景や抱き合う恋人たちの姿とともに描かれるようになりました。
本作では、花瓶に生けられた紫色の花束が中央に大きく描かれています。
背景の青は、画家のアトリエがある南フランスの空と海の色です。
左下には、故郷の思い出につながる赤いロバとベラと思われる人物が寄り添うように横たわっています。
シャガールは、愛妻ベラを第二次大戦中に亡くしますが、追憶の中で生きるその姿を情感溢れるマチエールと色彩で描き続けました。

10. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ

10. ハートの涙(ケマンソウ)
エミール・ガレ
ケマンソウは、斜めに伸びた茎にハート型の花がいくつも吊り下がる植物で、ガレの作品によく登場します。
本作はガレの晩年に制作されたとされる希少な作品です。
正面の大胆なレリーフ装飾だけでなく、器の形や背面に彫り込まれた模様に至るまで、一貫してこの花の姿をモチーフとしています。
詩文などは彫られておらず、ガレが本作にどのような心情を重ねたのかを窺い知ることはできませんが、その装飾の密度の高さは、彼がこの花のユニークな生態や可憐な姿にいかに魅了されていたかを物語るようです。
1904年9月23日、ガレは白血病のため亡くなりました。58歳の若さでした。
その翌週に発行されたイリュストラシオン誌には、追悼記事とともにこのケマンソウの花器がうつる写真が掲載されています。
下瀬家では、この作品を、ケマンソウのドイツ語の呼称にちなんで、「ハートの涙」と呼び、ガレによる大きな祭壇風のキャビネットの中央に大切に飾っていました。

11. 花瓶「フランスの薔薇」
エミール・ガレ

11. 花瓶「フランスの薔薇」
エミール・ガレ
毒々しい深紅の蕾と棘をまとった枝葉が、優しいピンクの器にからみつくように表現されています。 モチーフとなっているのは、学名ロサ・ガリカ、通称「フランスの薔薇」です。
フランスのロレーヌ地方では、メス近郊の山にしか咲かないとされたこの薔薇を、ガレは愛国心の象徴として用いました。
普仏戦争後、ドイツに割譲されたロレーヌの地で変わらず咲き続ける薔薇の姿に、領土奪還を願う思いを込めたのです。
ガレは、晩年に、ナンシー中央園芸協会の会長を退任するレオン・シモンのために、この薔薇をモチーフとした脚付きの大きな杯を制作しています。
それは、普仏戦後に故郷のメスを離れてフランス国籍を選択し、バラの研究に尽力したシモンへのオマージュでもありました。
本作は、その杯のデザインの一部を展開させた作品のひとつです。
ガレの思いを伝えるように、小さな蕾が重厚な存在感を放っています。

12. 鳥と少女
藤田嗣治

12. 鳥と少女
藤田嗣治
藤田嗣治は、エコール・ド・パリを代表する画家の一人である一方、第二次大戦中の日本では、従軍画家として戦争画を描いた一人でもありました。
戦争画は敗戦後に糾弾の対象となり、藤田自身も批判を浴びることになります。
そして藤田は日本を離れてフランスに渡り、帰化の道を選んだのです。
そうした中で、フランスに戻った藤田が強く惹かれたのは、無垢さと邪悪さを持ち合わせた子どもたちでした。
「私の画の小供が私の息子なり娘なりで、一番愛したい小供だ」。
子どものいなかった藤田はこのように述べ、頭が大きく、目尻の上がった、人形のような顔立ちをした子どもを盛んに描くようになります。
本作では、一羽のセキセイインコを大事そうに抱えて微笑む、あどけない顔をした少女が描かれています。
エコール・ド・パリで称賛を浴びた繊細な線描や陶器のように瑞々しい乳白色の下地も復活し、少女への暖かな眼差しを感じさせる作品に仕上がっています。

13. メイ
藤田嗣治

13. メイ
藤田嗣治
藤田嗣治は、猫の画家とも呼ばれるように猫を好んで題材としましたが、犬の絵も描いています。
本作は、黒いプードルを描いた作品です。
この絵が描かれた1939年、藤田は8年ぶりにフランスを訪れていましたが、第2次世界大戦の勃発を受け、夏の期間を友人の猪熊源一郎とフランス南西部にあるレゼジー村で過ごしていました。
画面の書き込みにありますように、本作はそのレゼジー村滞在中に制作されたものであります。
画面中央に、プードルの母犬が横たわり、そこに2匹の小さな子犬がよちよちと歩いています。
藤田は全体的にモノトーンに抑えられた色調を使い、床の硬質さや、犬の毛並みの違いなど、質感を意識して描き分けています。
足元の覚束ない子犬を気遣いつつも、こちらにやや警戒した視線を向ける母犬の表情には、迫りくる戦火への藤田の不安や深刻化する世界情勢が反映されているのかもしれません。

14. 大原女
小磯良平

14. 大原女
小磯良平
大原女とは、かつて京都の町において薪などを売り歩いていた女性のことを指します。
黒の小袖に紅の帯、白の手甲と下着、頭に白の手拭という特徴的な姿をしていたのです。
本作は、小磯良平がアトリエでモデルに大原女の衣装を着させて描いたものですが、不思議な構図の作品になっています。
というのも、一つの画面に、正面から見た姿、右斜めから見た姿、左斜めから見た姿、そして立ち姿を詰め込んでいるからです。
まるで、座りながら回っている姿を連続で描いたようにも見えます。
このような構図になったのは1950年代後半に、小磯がキュビスム風の画面構成を試みていたことに由来すると考えられます。
かなり実験的な作品といえるもので、強弱のある大胆な線描もそのためで、配色のリズムに対する小磯の徹底した計算もその延長線上のあるものなのです。

15. 風
加山又造

15. 風
加山又造
本作は、1982年の《音》と同様の構図で、ヒマラヤン猫が描かれた作品であります。
タイトルから考えますと、わずかな風が立ったので、耳とヒゲに神経を集中させ、前足と尻尾を緊張させるポーズをとっているように見えます。
柔らかな長い毛でわかりにくいのですが、背中も幾分緊張しているように見えます。
加山又造が猫を主題とした動物画を始めたのは1960年代に入ってからで、最初は短い毛のシャムを神経質なタッチで描いていました。
それが1970年代後半からは、ヒマラヤンに変わり、刺々しい印象も和らいできたように思われます。
そのなかにあっても、目はブルーに描かれ続け、獲物を狙うような澄みきった眼差しも変わらない鋭さをもち合わせています。

16. 蒼い日輪
加山又造

16. 蒼い日輪
加山又造
一見するとどういう作品か分かりにくいのですが、よく見ると、痩せこけ干からびたカラスが、裸木につかまってうつむいているのが分かります。
しかもカラスは、盲目で、くちばしを大きく開けて鳴いています。
背後に、厳しく寒い北国の雪空が広がり、中央の大きな太陽が炎を伴って暗く燃えているように描かれ、衝撃的ともいえる荒涼感がただよっています。
なぜこのような絵が描かれたのでしょうか。
第二次大戦後、「日本画滅亡論」が唱えられ、日本画においても新しい表現を必死に模索していた時期がありました。
加山又造は、鳥や動物の生命感を、ブリューゲルなどの影響による広大な自然空間に置いて描き始めていました。
彼は、当時の自身の心情に照らしながら、新しいスタイルを創り出していったのです。
戦後の先の見えない状況の中、経済的にも苦しい生活を送っていた加山の不安や苦しさがそこに表されているのでしょう。

17. 祈り
香月泰男

17. 祈り
香月泰男
香月泰男は、過酷なシベリア抑留を体験した画家として知られています。
旧満州に動員されていた香月は、第二次大戦終戦直後にソ連軍により極寒の地シベリアに連行され、2年間の強制労働の生活に耐えた後に帰国したのです。
そうした体験をもとに描かれたのが「シベリヤ・シリーズ」でした。
本作の中央の黒い画面には、人物の顔と手が粗い筆致で描かれています。
その顔は、肉が落ち、目がくぼみ、頬骨が突き出たように見えます。
その手は、合掌して祈っているように見えます。
本作は、「シベリヤ・シリーズ」の《涅槃》に関連する作品です。
香月は、シベリアの過酷な環境で死者が出るたびに、その顔を紙の片隅にスケッチしていたのですが、それらは結局、ソ連兵に取り上げられてしまいました。
その多くの顔を描いたのが《涅槃》であり、そのひとつを採りあげたのが本作でした。
そこには死者への追悼とともに、静かで深い嘆きや悲しみを見ることができます。

18. 染付猛鳥画花瓶
北大路魯山人

18. 染付猛鳥画花瓶
北大路魯山人
料理人であり陶芸家であった北大路魯山人は、美食を求めると同時に、それにふさわしい美しい食器をも求めました。
自ら厨房に入って料理を作る一方で、使用する食器を自らの手で創作したのです。
1925年に東京に星岡茶寮という会員制料亭をはじめ、鎌倉では星岡窯を築いて理想の陶磁器の制作を始めたのです。
その作域は、志野から織部、信楽、備前、瀬戸、染付、色絵など広範囲に及びました。
本作は、中国風の染付で、石川県山代の須田菁華から手ほどきを受けた技法による作品です。
猛々しい鷹が獲物を仕留めて今にも啄(ついば)もうという瞬間を描いたもので、その筆は正確かつ手早く躍動感があります。
空白の白磁部分も多く残して、静と動をバランス良く組み合わせているのが印象的な作品です。

19. エミール・ガレの庭
エミール・ガレ

19. エミール・ガレの庭
エミール・ガレ
ガレが植物や昆虫をモチーフとする独自の表現を築いた背景には、彼の自然に対する強い関心がありました。
フランスのナンシーの自宅に設けた広大な庭には、温室や湿地、野菜園や果樹園があり、日本の品種を含む3000種類近い植物が植えられていたと言われています。
そこに集まった自然を観察しながら、作品の着想を得るとともに、その神秘の解明にも力を注いだのです。
当館の「エミール・ガレの庭」は、そんなガレの作品に登場する草花を中心に、ここ広島の植生に合わせて構成された庭園です。
庭園内には、池やパーゴラ、ボードウォークなどが設けられていて、春には、ケマンソウやニオイアラセイトウが花を咲かせ、夏には、コウホネやスイレンの花が池に浮かびます。
秋にはイヌサフランが再び姿を現し、冬にはスイセンが水辺を彩ります。
ときには、蝶やトンボなどの昆虫たちにも出会えるでしょう。
ガレの作品とともに彼が愛した自然を心ゆくまでお楽しみください。